徒然なるままに、書き記します。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
お~、さすがに今日は眠いぞ。
ただいま、錬成会→買い物→温泉と帰ってきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
すっきり、歌ったでやんす。満足っす…
今日は眠いだろうねぁ…すまんのぅ…
昨日は、頑張ったで…
だいたい、法律家の下で学生時代過ごしてますので、
主文が先よ。理由は、あとからよ…常識です。
だから、物事をスパッとしすぎるのが癖です。
さらに、判例になるような複雑な人間関係ばかりを学生の頃、ひらすら勉強するのですよ。ま、悪い人がこの世の中、うじゃっといるって、習う学問です。
30歳の時、法学教室の清水(服部)先生(女性)に、もし、結婚式をしたら、来てもらえますか?って質問をしたら
うん、法律家というのものは、35を過ぎないと結婚できないものだよ…と真顔で言われたのを思いだします。
これ、かなり有名な話なんだけど…
そのとき、私はまさかねぇ…って思ってましたが…私も例外でなくなったわけです。
ちなみに、その時よりは、私も丸くなったと思います。
だから、今は、大丈夫さ…は、は、は。
なんって、などなど思ってしまった土曜日です。これから、ちょっと出かけ、帰ってきます。
では、
ただいま、錬成会→買い物→温泉と帰ってきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
すっきり、歌ったでやんす。満足っす…
今日は眠いだろうねぁ…すまんのぅ…
昨日は、頑張ったで…
だいたい、法律家の下で学生時代過ごしてますので、
主文が先よ。理由は、あとからよ…常識です。
だから、物事をスパッとしすぎるのが癖です。
さらに、判例になるような複雑な人間関係ばかりを学生の頃、ひらすら勉強するのですよ。ま、悪い人がこの世の中、うじゃっといるって、習う学問です。
30歳の時、法学教室の清水(服部)先生(女性)に、もし、結婚式をしたら、来てもらえますか?って質問をしたら
うん、法律家というのものは、35を過ぎないと結婚できないものだよ…と真顔で言われたのを思いだします。
これ、かなり有名な話なんだけど…
そのとき、私はまさかねぇ…って思ってましたが…私も例外でなくなったわけです。
ちなみに、その時よりは、私も丸くなったと思います。
だから、今は、大丈夫さ…は、は、は。
なんって、などなど思ってしまった土曜日です。これから、ちょっと出かけ、帰ってきます。
では、
PR
まとめ…
「あの頃、先生は、何を考えていたのだろう」という教え子くんからのmixiのメッセージから始まった今回のシリーズ。
断片的に思い出したところを書き綴ってみたました。
ま、実際あったことを、だいたいは時系列に追ってみました。
みんなを持った3年間は、私は20代から30代に突入した時期でした。
そういう意味では、そろそろ皆さんが差し掛かる時期かなと思います。
私の仕事の始まりが24歳。
正式採用が25歳。
初三で転勤して、28歳。
皆さんとの出会いが29歳。
仕事も一周して、それがみんさんとの出会いでした。
このときに中学校で大きく問題になっている事項が2つ。
1.校則の変更。男子の頭髪が、坊主っていうのが変更できないかという問題。
2.学校と地域がうまくいっていない。
これをうまく、解決したと思います。
1、「校則の自律化」って言葉に表されるのですが、これをうまく使って、
2、学校が良くなって地域にみんなが認められることでさらに良いサイクルになっていったのかと思うのです。
これらは、ちょうど「中生協」がくることでさらに、遠野市内に学校が変わったということを印象づけましたし、何かに、学校が目立つ存在であったことも大きいのではないでしょうか。
3年経って、学校が劇的に変わったのですね。
何度も書きますが、それは、全くの偶然ではなく、ちゃんと考えがあって進んでいったもの。
例えば、一つの例として、「総合的な学習の時間」の組み直しは、後に、3年経って1サイクルで完成された形になったのも分かったもらえたかと思います。
いずれ、中学校は、すっかり形がなくなって、我が母校が消えてしまうという悲しい思いをしていることでしょうが、ものは形がなくなるもの。
残るのは、形がないもの。
きっと、君たちの心にあの中学校時代が、いつまでも「礎」として残っていくことと思います。
最後に…
こんなことを書いていますが、私だけが、頑張ったわけではありません。
たくさんの人の協力の下、様々なプロジェクトが完成されたといえます。
だから、偉そうに私がやりました…っていうのは、今まで控えたいました。
ここで、書いたのは、そろそろいろいろなことで自分に向き合ってみたら良い時期かも…って、始めてみました。
自画自賛するなら、わたしの力があるのは、計画書を作る力と人を巻き込む力。
これだけは、自分でもすごいなぁ…って、客観的に思ってしまいます。
以上、このシリーズ終わります。
「あの頃、先生は、何を考えていたのだろう」という教え子くんからのmixiのメッセージから始まった今回のシリーズ。
断片的に思い出したところを書き綴ってみたました。
ま、実際あったことを、だいたいは時系列に追ってみました。
みんなを持った3年間は、私は20代から30代に突入した時期でした。
そういう意味では、そろそろ皆さんが差し掛かる時期かなと思います。
私の仕事の始まりが24歳。
正式採用が25歳。
初三で転勤して、28歳。
皆さんとの出会いが29歳。
仕事も一周して、それがみんさんとの出会いでした。
このときに中学校で大きく問題になっている事項が2つ。
1.校則の変更。男子の頭髪が、坊主っていうのが変更できないかという問題。
2.学校と地域がうまくいっていない。
これをうまく、解決したと思います。
1、「校則の自律化」って言葉に表されるのですが、これをうまく使って、
2、学校が良くなって地域にみんなが認められることでさらに良いサイクルになっていったのかと思うのです。
これらは、ちょうど「中生協」がくることでさらに、遠野市内に学校が変わったということを印象づけましたし、何かに、学校が目立つ存在であったことも大きいのではないでしょうか。
3年経って、学校が劇的に変わったのですね。
何度も書きますが、それは、全くの偶然ではなく、ちゃんと考えがあって進んでいったもの。
例えば、一つの例として、「総合的な学習の時間」の組み直しは、後に、3年経って1サイクルで完成された形になったのも分かったもらえたかと思います。
いずれ、中学校は、すっかり形がなくなって、我が母校が消えてしまうという悲しい思いをしていることでしょうが、ものは形がなくなるもの。
残るのは、形がないもの。
きっと、君たちの心にあの中学校時代が、いつまでも「礎」として残っていくことと思います。
最後に…
こんなことを書いていますが、私だけが、頑張ったわけではありません。
たくさんの人の協力の下、様々なプロジェクトが完成されたといえます。
だから、偉そうに私がやりました…っていうのは、今まで控えたいました。
ここで、書いたのは、そろそろいろいろなことで自分に向き合ってみたら良い時期かも…って、始めてみました。
自画自賛するなら、わたしの力があるのは、計画書を作る力と人を巻き込む力。
これだけは、自分でもすごいなぁ…って、客観的に思ってしまいます。
以上、このシリーズ終わります。
雨でした。チャリ不能。よって、自動車。
いろいろと処理が済んだ日。
やらかした教材が朝っぱらから届き。
先週頼んでいた「必携」が届き。
要録を書き始めて…
今日も4分の4だったが、頑張ったよ、自分。昨日もだったけど…
あと、明日のはばきの脱ぎの連絡も終えたしね…
帰り針治療受けて帰ってきました。
また、眠ってしまい、そのあと、寝起き顔で、買い物して帰ってきました。
鏡を見ると子供顔です。おねむの後って、感じ…
明日は、成り行き上、学校代表でいってらっしゃい…をしたので、お帰りなさい…をしようかと思っております。
ということを上司に話したら、ん?見送りしたら、可愛くなったのかい…的な発言をされましたが
そもそも、そういうことじゃ、ないんじゃない?ねぇ…って…そもそも…ねぇ、ねぇ…
いずれ、お迎え参ります。よ…
明日で、週末の今日は木曜日。
元気で帰ってきてね^^;
いろいろと処理が済んだ日。
やらかした教材が朝っぱらから届き。
先週頼んでいた「必携」が届き。
要録を書き始めて…
今日も4分の4だったが、頑張ったよ、自分。昨日もだったけど…
あと、明日のはばきの脱ぎの連絡も終えたしね…
帰り針治療受けて帰ってきました。
また、眠ってしまい、そのあと、寝起き顔で、買い物して帰ってきました。
鏡を見ると子供顔です。おねむの後って、感じ…
明日は、成り行き上、学校代表でいってらっしゃい…をしたので、お帰りなさい…をしようかと思っております。
ということを上司に話したら、ん?見送りしたら、可愛くなったのかい…的な発言をされましたが
そもそも、そういうことじゃ、ないんじゃない?ねぇ…って…そもそも…ねぇ、ねぇ…
いずれ、お迎え参ります。よ…
明日で、週末の今日は木曜日。
元気で帰ってきてね^^;
中生協のキャンプが終わりました。
生徒会というのは、常に、終わったら次のことを考えないとなりません。
これが、出来ないと、行事単発、生徒会になりまして、なんだかよく分からない集団になるのですよ…
だから、すぐに文化祭に取り組みました。
ちょうど、総合的な学習の時間が、華やかな時代でしたので、この時間をうまくつかって…
みんながやりたいことをリストアップしましたら
1.石けん作り
2.演劇
3.草木染め
だから、2学期になったら、すぐに始めました。
とにかく、やってて楽しかったです。
石けんは、1度はうまく出来たけど、あれって、どうだったのでしょうね。
ちなみに、あのときの石けん、しばらく家にあって、そ、未だにあるよね。
「風の丘」から廃油をもらってきて、苛性ソーダとまぜるってやつ。
草木染めは「ほうじょう」さん、先頭切って、染めてました。隣で、石けん作っている横で。女の子って、こういうことが好きなんだなぁ…って、男同士でとにかく、石けん作ってました。
あとは、「演劇」。私が来た時には、一度、文化祭で各学級やっていたのですよ。しかし、あまりに…で、学校で一つの演劇に絞ってやっておりました。これをクラスごとに復活させるといもの。これも3年越しの計画なのですね。
私は「演劇」指導、嫌いじゃないのです。だから、やりたかったのですが、なかなかそれが出来る状況でなく、2年たち。
しかも、オリジナル脚本というまさに無謀とも言える挑戦。
蝶をモチーフにした、「あゆか」さんの脚本。
これが、劇になるかとやってみないと分からなかったけど、いろいろと途中、途中を手直ししながら、最後まで通るようになったときは、うれしかったよ。
やっぱり、主役は、「しん」くん。ヒロインが「ほうじょう」さん。「めぐみ」さんの役もおもしろかった…って、演出してたんだ…な、私。
ま、生徒会執行部の集大成のような演劇だったんだね。
実に、大受け。拍手喝采。で、幕を閉じました。
一度しか、結局、みんなに見てもらう機会がなかったけど、それはそれで、良かったと思います。
もう、文化祭が終わると、生徒会も総括の議案書を書いて、生徒総会。
それが終わると受験勉強。
私は、放課後ずっと、教室について、みんなが勉強する姿を見ていました。
それこそ、クラブは、ひさお先生におまかせ、そして、「おくとも」さんにおまかせ。
とにかく、教室にひっついて、ま、私は、一生懸命、本を読んでいただけだけど…
おかげさまで、たくさんの本を読破しました。が。
何より、真剣に勉強している君たちの横で見守りたかったんだと思うよ。
さすが、進路の指導も2度目となって、その分、余裕もあり、さらに、3年間を見た生徒たちでもあったので、何を、調査書に書いてあげれば良いかも、悩むこともなく…
結局、本当に進路事務作業は、順調に進みました。
ただ、一人はいつまでも心配の種でしたが…
その生徒も結局、高校進学が決まり。
無事、公立高校の合格発表日には、進路がすべて決定しました。
指導要録も難なく書き終えた私は、長距離通勤から解放され、次の勤務地に移動しました。
長くなりました。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございます。
生徒会というのは、常に、終わったら次のことを考えないとなりません。
これが、出来ないと、行事単発、生徒会になりまして、なんだかよく分からない集団になるのですよ…
だから、すぐに文化祭に取り組みました。
ちょうど、総合的な学習の時間が、華やかな時代でしたので、この時間をうまくつかって…
みんながやりたいことをリストアップしましたら
1.石けん作り
2.演劇
3.草木染め
だから、2学期になったら、すぐに始めました。
とにかく、やってて楽しかったです。
石けんは、1度はうまく出来たけど、あれって、どうだったのでしょうね。
ちなみに、あのときの石けん、しばらく家にあって、そ、未だにあるよね。
「風の丘」から廃油をもらってきて、苛性ソーダとまぜるってやつ。
草木染めは「ほうじょう」さん、先頭切って、染めてました。隣で、石けん作っている横で。女の子って、こういうことが好きなんだなぁ…って、男同士でとにかく、石けん作ってました。
あとは、「演劇」。私が来た時には、一度、文化祭で各学級やっていたのですよ。しかし、あまりに…で、学校で一つの演劇に絞ってやっておりました。これをクラスごとに復活させるといもの。これも3年越しの計画なのですね。
私は「演劇」指導、嫌いじゃないのです。だから、やりたかったのですが、なかなかそれが出来る状況でなく、2年たち。
しかも、オリジナル脚本というまさに無謀とも言える挑戦。
蝶をモチーフにした、「あゆか」さんの脚本。
これが、劇になるかとやってみないと分からなかったけど、いろいろと途中、途中を手直ししながら、最後まで通るようになったときは、うれしかったよ。
やっぱり、主役は、「しん」くん。ヒロインが「ほうじょう」さん。「めぐみ」さんの役もおもしろかった…って、演出してたんだ…な、私。
ま、生徒会執行部の集大成のような演劇だったんだね。
実に、大受け。拍手喝采。で、幕を閉じました。
一度しか、結局、みんなに見てもらう機会がなかったけど、それはそれで、良かったと思います。
もう、文化祭が終わると、生徒会も総括の議案書を書いて、生徒総会。
それが終わると受験勉強。
私は、放課後ずっと、教室について、みんなが勉強する姿を見ていました。
それこそ、クラブは、ひさお先生におまかせ、そして、「おくとも」さんにおまかせ。
とにかく、教室にひっついて、ま、私は、一生懸命、本を読んでいただけだけど…
おかげさまで、たくさんの本を読破しました。が。
何より、真剣に勉強している君たちの横で見守りたかったんだと思うよ。
さすが、進路の指導も2度目となって、その分、余裕もあり、さらに、3年間を見た生徒たちでもあったので、何を、調査書に書いてあげれば良いかも、悩むこともなく…
結局、本当に進路事務作業は、順調に進みました。
ただ、一人はいつまでも心配の種でしたが…
その生徒も結局、高校進学が決まり。
無事、公立高校の合格発表日には、進路がすべて決定しました。
指導要録も難なく書き終えた私は、長距離通勤から解放され、次の勤務地に移動しました。
長くなりました。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございます。
今日は、修学旅行の見送りから始まりました。
今年は持ちませんが、1,2年生の社会を持っていたので、知っている生徒も多く…
無論、大事なこととして、先生たちに差し入れ持って参りました。よ。
さすがに、6時25分の集合時間は、午後には体にきました。
ちょちと午後、休みとって、針治療の今日です。
で、治療中、不本意にも眠ってしまった…
眠気&寝起き&ボサ髪で、買い物して帰ってきて、書いてます。
朝からチャリ通。駅にもチャリ通。
天気不安定だから、まさにそれを縫ってのチャリ。
なぜか、今日は学校代表としての行ってらっしゃいませ。
いろいろあって、序列5番目の私が、大役を仰せつかってしまいました。
予定外の行動にお疲れ様。徳川吉宗の気持ち…
職員室、朝の打ち合わせで、上司がその話をして…
超・大受け、大爆笑(*^O^*)
だんだけ、私は人気もんだいくらいの朝からハプニングでした。
やっぱり、良いキャラクターなのだろうか?ね。
おかしい…いつから、そうなってんだろう?って、前からね…はい、はい…
とにかく、
可愛い生徒たち、手を振って、お見送りの朝でした。
行ってらっしゃい…ハバ・ア・ナイス・トリップ。
って、話上、帰り待ち受けてますので、お迎えもせんとなりませんね…
はばき脱ぎも、参加しますよ…なぜか、成り行き上、場所取りしてしまった…
半分、幹事か?っていう日でした。
今年は持ちませんが、1,2年生の社会を持っていたので、知っている生徒も多く…
無論、大事なこととして、先生たちに差し入れ持って参りました。よ。
さすがに、6時25分の集合時間は、午後には体にきました。
ちょちと午後、休みとって、針治療の今日です。
で、治療中、不本意にも眠ってしまった…
眠気&寝起き&ボサ髪で、買い物して帰ってきて、書いてます。
朝からチャリ通。駅にもチャリ通。
天気不安定だから、まさにそれを縫ってのチャリ。
なぜか、今日は学校代表としての行ってらっしゃいませ。
いろいろあって、序列5番目の私が、大役を仰せつかってしまいました。
予定外の行動にお疲れ様。徳川吉宗の気持ち…
職員室、朝の打ち合わせで、上司がその話をして…
超・大受け、大爆笑(*^O^*)
だんだけ、私は人気もんだいくらいの朝からハプニングでした。
やっぱり、良いキャラクターなのだろうか?ね。
おかしい…いつから、そうなってんだろう?って、前からね…はい、はい…
とにかく、
可愛い生徒たち、手を振って、お見送りの朝でした。
行ってらっしゃい…ハバ・ア・ナイス・トリップ。
って、話上、帰り待ち受けてますので、お迎えもせんとなりませんね…
はばき脱ぎも、参加しますよ…なぜか、成り行き上、場所取りしてしまった…
半分、幹事か?っていう日でした。
昨日の続き
「中生協」は、「遠野地区中学校生徒会連絡協議会」を約したもので、遠野に来た当時は、「生協」の仲間?くらいしかイメージがなかったのですよ。
実際、初任校である青笹で事務局校が回ってきて、私は担当ではなかったのですが、合宿等には参加した記憶があります。
そして、遠野では労働組合の組織力があって、若い教員は、この中で学習会を通して、様々なことを学んでいくのです。
青笹の校長先生は、まさに組合校長で、今だから、言っても良いとは思うけど、だれが誘っていたかと言えば、間違いなく、彼だよと言えるだろうね。
それだけ、立派な方だったし。尊敬できる校長先生でしたし、何せ、やんちゃな私を見守るだけの度量のある校長先生でしたしね。
いずれにせよ、生徒会なども校長先生やその流れを組合で教えてもらいました。
勉強会にも、まじめに参加しました。
学校終わって、夜遅くまで、勉強会に参加すること何度となく。
そういう意味では、今、尊敬できる先輩教員とかに、アルコールなしで、まじめに話を聞く機会って、若い人にあるのかな?
だから、いろいろ知ってました。
そして、「中生協」の事務局校の大変さと逆にこれをうまくできる先生は、若い先生のあこがれでもあることも。
君たちが「中生協」の事務局となった時は、私は、30歳。
そして、生徒会担当と指導指導部長を兼任するという今じゃ考えられないくらいの話で…
こんな重要なポストが遠野でできるのは、「大先生」クラス。
実務から計画まで。実に大変だったのを覚えています。
この「中生協」にはテーマが必要で…
確かこの年は「地域と共にいきる生徒会」とかだったかな。
最初は、全体的な交流会ときりせんしょを作ったかな?
「中生協」は、単なる地区の生徒会のリーダー研修会ではなく、一方で、リーダーを育成する先生たちの研修会でもあるのです。
だから、生徒の研修会、交流会の計画とその後の先生たちの研修の計画、そうするとその間に、生徒たちをどういった体験的な行事を組むかという二本やら三本立ての計画を作らないとならないのです。
ここがみそで、通常は、生徒は生徒会担当、先生たちは、生徒指導部長って感じで、役割を分担しているのが普通なのです。
そこで、遠野の生徒指導部長って、大先生が必要なわけですよ。
それを兼務しているものですから、大変の何十乗?
それでも最初は、どうしようもないのでやりましたよ。当然、周りの先生たちの協力も半端ないものでした。
こういうときに、みんなが協力してくれるという私の巻き込み力は、すごいと思います。
単に周りがすごい人たちで、構成されているとは思いますが、
頼んで、やりたくないとか言われたこともないので。感謝申し上げます。
話を戻して、
何度かある「中生協」の中で、最もメインが、夏休みの合宿。
正式には、「中生協ジュニアキャンプ」。
「中生協」通常バージョンは、各校数人(3人くらい)の生徒会執行部代表とホスト校事務局校生徒会執行部全員の会合。
これだけでも大変。
「中生協ジュニアキャンプ」は、全学校の生徒会執行部が一堂に会してのイベント。無論、先生たちも生徒会担当、通常は、生徒指導部長、さらに、開会と閉会には各校の校長先生。
これらの人たちが、小さい学校なら、一気に集まってくるものですから、下手をすると普段、相手している生徒の数より多いんじゃない?しかも、知らぬ人たちの集団を…
って、いう行事なのです。
このために、夏休み中、準備をしないとならないのです。
この人たちを動かすイベント等々を企画しないと…
この年は、地域とのつながりがメインでしたので、とにかく、地域を歩かせる、ウォーラリーを企画。
何度か、下見にも行ったでしょ…
校長先生の都合で、夏休みの中盤くらいに、ジュニアキャンプが延びてしまったおかげで、モチベーションを保つために、ほぼ、毎日、生徒会の人たちは、集まりを持ってました。
あいにく、遠野は3年生でも夏休みは、陸上練習などをするので、学校に来る人は多いにしても、ちょっとやり過ぎかなと思ってはいましたが…
背に腹は替えられない。多少のクレームありましたが…事情が事情。
で、頑張りました。
正直、忙しすぎて、当日、どうだったかと記憶をたどることさえ、できないくらい。
キャンプファイヤーをやったことは覚えています。
職員室で寝ていたら、朝になっていて、慌てて起きたことも覚えています。
最後、終わって、ホッとしたことも覚えています。
とにかく、やりきって終わった…
その後、最後のまとめの中生協もありました。いずれ、全部終わって、生徒会が終わった時には、疲れたと思ったけど、充実感も残ったと思います。
「中生協」には、いろいろな思いがありますが、ちょっと書いてみたら、これだけになりました。
次回は、3年2学期から。
つづく…
「中生協」は、「遠野地区中学校生徒会連絡協議会」を約したもので、遠野に来た当時は、「生協」の仲間?くらいしかイメージがなかったのですよ。
実際、初任校である青笹で事務局校が回ってきて、私は担当ではなかったのですが、合宿等には参加した記憶があります。
そして、遠野では労働組合の組織力があって、若い教員は、この中で学習会を通して、様々なことを学んでいくのです。
青笹の校長先生は、まさに組合校長で、今だから、言っても良いとは思うけど、だれが誘っていたかと言えば、間違いなく、彼だよと言えるだろうね。
それだけ、立派な方だったし。尊敬できる校長先生でしたし、何せ、やんちゃな私を見守るだけの度量のある校長先生でしたしね。
いずれにせよ、生徒会なども校長先生やその流れを組合で教えてもらいました。
勉強会にも、まじめに参加しました。
学校終わって、夜遅くまで、勉強会に参加すること何度となく。
そういう意味では、今、尊敬できる先輩教員とかに、アルコールなしで、まじめに話を聞く機会って、若い人にあるのかな?
だから、いろいろ知ってました。
そして、「中生協」の事務局校の大変さと逆にこれをうまくできる先生は、若い先生のあこがれでもあることも。
君たちが「中生協」の事務局となった時は、私は、30歳。
そして、生徒会担当と指導指導部長を兼任するという今じゃ考えられないくらいの話で…
こんな重要なポストが遠野でできるのは、「大先生」クラス。
実務から計画まで。実に大変だったのを覚えています。
この「中生協」にはテーマが必要で…
確かこの年は「地域と共にいきる生徒会」とかだったかな。
最初は、全体的な交流会ときりせんしょを作ったかな?
「中生協」は、単なる地区の生徒会のリーダー研修会ではなく、一方で、リーダーを育成する先生たちの研修会でもあるのです。
だから、生徒の研修会、交流会の計画とその後の先生たちの研修の計画、そうするとその間に、生徒たちをどういった体験的な行事を組むかという二本やら三本立ての計画を作らないとならないのです。
ここがみそで、通常は、生徒は生徒会担当、先生たちは、生徒指導部長って感じで、役割を分担しているのが普通なのです。
そこで、遠野の生徒指導部長って、大先生が必要なわけですよ。
それを兼務しているものですから、大変の何十乗?
それでも最初は、どうしようもないのでやりましたよ。当然、周りの先生たちの協力も半端ないものでした。
こういうときに、みんなが協力してくれるという私の巻き込み力は、すごいと思います。
単に周りがすごい人たちで、構成されているとは思いますが、
頼んで、やりたくないとか言われたこともないので。感謝申し上げます。
話を戻して、
何度かある「中生協」の中で、最もメインが、夏休みの合宿。
正式には、「中生協ジュニアキャンプ」。
「中生協」通常バージョンは、各校数人(3人くらい)の生徒会執行部代表とホスト校事務局校生徒会執行部全員の会合。
これだけでも大変。
「中生協ジュニアキャンプ」は、全学校の生徒会執行部が一堂に会してのイベント。無論、先生たちも生徒会担当、通常は、生徒指導部長、さらに、開会と閉会には各校の校長先生。
これらの人たちが、小さい学校なら、一気に集まってくるものですから、下手をすると普段、相手している生徒の数より多いんじゃない?しかも、知らぬ人たちの集団を…
って、いう行事なのです。
このために、夏休み中、準備をしないとならないのです。
この人たちを動かすイベント等々を企画しないと…
この年は、地域とのつながりがメインでしたので、とにかく、地域を歩かせる、ウォーラリーを企画。
何度か、下見にも行ったでしょ…
校長先生の都合で、夏休みの中盤くらいに、ジュニアキャンプが延びてしまったおかげで、モチベーションを保つために、ほぼ、毎日、生徒会の人たちは、集まりを持ってました。
あいにく、遠野は3年生でも夏休みは、陸上練習などをするので、学校に来る人は多いにしても、ちょっとやり過ぎかなと思ってはいましたが…
背に腹は替えられない。多少のクレームありましたが…事情が事情。
で、頑張りました。
正直、忙しすぎて、当日、どうだったかと記憶をたどることさえ、できないくらい。
キャンプファイヤーをやったことは覚えています。
職員室で寝ていたら、朝になっていて、慌てて起きたことも覚えています。
最後、終わって、ホッとしたことも覚えています。
とにかく、やりきって終わった…
その後、最後のまとめの中生協もありました。いずれ、全部終わって、生徒会が終わった時には、疲れたと思ったけど、充実感も残ったと思います。
「中生協」には、いろいろな思いがありますが、ちょっと書いてみたら、これだけになりました。
次回は、3年2学期から。
つづく…
かくゆう私も、ほったらかし状況で、吹っ切れ感が頭をもたげ、
これを書くのも、どうかと思っていましたが…
そうそう、某さんが
年は取っているが、綺麗なひとを紹介しようか…って、冗談とも言えないようなことを言っており
その後、「美人」って言葉に反応したな…って、言ってましたが、
かのガリレオ先生も、うつみ刑事に、可愛い婦警さんとの合コンの設定を提案され、反応したと指摘され
「猫にマタタビを好きかときくようなもので、そもそも愚問だ」と言い返していたのを帰ってきてから思い出し、
そのとき、そう、言い返さなかったことを後悔しました。
その武器に勝てる奴がいたら教えて欲しいですね。
んなこと言って、どうするんだ…
あと、イオンで、男子生徒に絡まれて…もう、悪ふざけも大概になさい…
ある意味、可愛いと言えば可愛いともいえる悪ふざけ軍団。
撮った写真は、悪用しないように…
今日は、いろいろな場所で、とりあえず、お勉強。
役職も公然と勉強して気にならないお仕事になりましたのでストレスがなく仕事が出来ます。
この今いる学年やらが、自分にとって、心地よい感じです。
景観学習、農業体験学習、現在、計画中なのですが、何となくやっていて楽しい。
いろいろとやってあげても苦にならないのが今。
そういう意味で幸せ感があります。
今、雨。この後も続くらしい。
明日は、車か…見送りもあるので、早く寝て、早起きだね…
これを書くのも、どうかと思っていましたが…
そうそう、某さんが
年は取っているが、綺麗なひとを紹介しようか…って、冗談とも言えないようなことを言っており
その後、「美人」って言葉に反応したな…って、言ってましたが、
かのガリレオ先生も、うつみ刑事に、可愛い婦警さんとの合コンの設定を提案され、反応したと指摘され
「猫にマタタビを好きかときくようなもので、そもそも愚問だ」と言い返していたのを帰ってきてから思い出し、
そのとき、そう、言い返さなかったことを後悔しました。
その武器に勝てる奴がいたら教えて欲しいですね。
んなこと言って、どうするんだ…
あと、イオンで、男子生徒に絡まれて…もう、悪ふざけも大概になさい…
ある意味、可愛いと言えば可愛いともいえる悪ふざけ軍団。
撮った写真は、悪用しないように…
今日は、いろいろな場所で、とりあえず、お勉強。
役職も公然と勉強して気にならないお仕事になりましたのでストレスがなく仕事が出来ます。
この今いる学年やらが、自分にとって、心地よい感じです。
景観学習、農業体験学習、現在、計画中なのですが、何となくやっていて楽しい。
いろいろとやってあげても苦にならないのが今。
そういう意味で幸せ感があります。
今、雨。この後も続くらしい。
明日は、車か…見送りもあるので、早く寝て、早起きだね…
生協の事務局校としての合宿をしなければならい夏休みの話から。
この年、アンケートをとったら、川に行くという意見が強くて、学級行事は、宮守の柏木平の体育館に泊まりましたね。
そば打ちなどをした覚えがあります。
「めぐみ」さんだけが、水着を持ってきたからという理由で、川に入っていた記憶もよみがえりました。
何より、このときの学級PTAの委員長さんが「おくとも」さんで、野球部のコーチをしてくれたり、無論、この学級行事の親子行事の企画から運営までしてくれたりと、本当に何から何まで、お世話になりました。もちろん、謝恩会まで。
実際、スペシャル・サンクスの保護者の方々は、いずれまた、書いてみたいと思います。
2年生のときの学級PTAの「まあこ」さんのおうちの方々にも、根浜海岸に行く親子行事もとっても楽しかったし…
私は、PTA行事といえば、お家の方がやるものだと、本当に丸投げに近い形でしたので、全部、やってもらいまして、これに感謝します。おかげさまで、好きなことをやらせてもらいました。
書き出すとこれは、終わらないで、ここら辺で…
さらに、思い出すこと、私、この年の1月に今の北上の家が完成し、しばらく、週末に帰る程度だったのを、4月から北上から遠野まで通うことにしたんだよ。
だいたい、独り者なのに、二重生活って変じゃないって、思ったり。
他の理由もあることにはあったのですが…
ま、私の勝手な理由で、片道、50キロ近くの長距離通勤。
そうだ、この道、長いから、いろいろ考えることが出来て、「三年生を送る会」の生徒会コントを考えたり、しながら帰ったのを覚えています。
何で、これを書いたかというと、3年生の親子行事合宿の柏木平に行くとき、「おくとも」さんと下見に行ったのを覚えています。先生、遠くから来ているので、帰り際、都合の良い的に一緒に見に行きましょう。って、見に行ったのを。
毎日、この「柏木平」。通ってましたし。
皆さんには、たくさん気を遣ってもらいました。
そして、運動会の時には、早く学校に行って、みんなの練習の様子を見てました。
このとき、「あみ」さんは、「先生、遠くから朝早くから来ているのちゃんと練習しないって、どういうこと?」系の話をしてくれ、正直、私は好きで、長距離通勤しているので、「まぁ、まぁ…」って、思ってましたが、本当に、心、優しい人なんだなぁって思いましたよ。
あ、中生協のことを書こうと思って、書き始めたのですが、すっかり、横道にそれにそれましたので、もう、ついでだから、ついでのついで話ばかりを綴ってみます。
中生協は、後にします。
中生協の合宿が終わった後に、男子2名をお疲れさんで、私の新築のお家に招待しました。
そう、生徒を家に入れたのは、後にも先にも君たちだけです。
気持ちがそうだったんだよね。普通しないけど、まぁ、良いだろう。って。
ちょうど、北上が芸能祭りの最終日。花火の日。
君ら家の人に送られてきて、北上駅で待ち合わせしたよね。
その日、ラーメンを食べさせてあげるよと私が、スープとチャーシュー、煮卵を作って、お待ち申し上げておりましたよ。
ご飯食べて、歩いて花火見に行って、てくてく、また、歩いて帰ってきて。
夏の暑い盛りだから、家に冷房きかせていたことを覚えています。
今にしてみれば、私自身、自分のやりたいこと、本当にやりたいようにやっていたんだよね…
これは、今じゃ、できないよね。
それも、お家の人も協力的に見ていてくれたんだよね。
そういう意味でもとっても貴重な時間を過ごさせてもらったと思います。
今日は意図せず、とりとめのない話になりまして、次回、中生協について書きます。
つづく。
この年、アンケートをとったら、川に行くという意見が強くて、学級行事は、宮守の柏木平の体育館に泊まりましたね。
そば打ちなどをした覚えがあります。
「めぐみ」さんだけが、水着を持ってきたからという理由で、川に入っていた記憶もよみがえりました。
何より、このときの学級PTAの委員長さんが「おくとも」さんで、野球部のコーチをしてくれたり、無論、この学級行事の親子行事の企画から運営までしてくれたりと、本当に何から何まで、お世話になりました。もちろん、謝恩会まで。
実際、スペシャル・サンクスの保護者の方々は、いずれまた、書いてみたいと思います。
2年生のときの学級PTAの「まあこ」さんのおうちの方々にも、根浜海岸に行く親子行事もとっても楽しかったし…
私は、PTA行事といえば、お家の方がやるものだと、本当に丸投げに近い形でしたので、全部、やってもらいまして、これに感謝します。おかげさまで、好きなことをやらせてもらいました。
書き出すとこれは、終わらないで、ここら辺で…
さらに、思い出すこと、私、この年の1月に今の北上の家が完成し、しばらく、週末に帰る程度だったのを、4月から北上から遠野まで通うことにしたんだよ。
だいたい、独り者なのに、二重生活って変じゃないって、思ったり。
他の理由もあることにはあったのですが…
ま、私の勝手な理由で、片道、50キロ近くの長距離通勤。
そうだ、この道、長いから、いろいろ考えることが出来て、「三年生を送る会」の生徒会コントを考えたり、しながら帰ったのを覚えています。
何で、これを書いたかというと、3年生の親子行事合宿の柏木平に行くとき、「おくとも」さんと下見に行ったのを覚えています。先生、遠くから来ているので、帰り際、都合の良い的に一緒に見に行きましょう。って、見に行ったのを。
毎日、この「柏木平」。通ってましたし。
皆さんには、たくさん気を遣ってもらいました。
そして、運動会の時には、早く学校に行って、みんなの練習の様子を見てました。
このとき、「あみ」さんは、「先生、遠くから朝早くから来ているのちゃんと練習しないって、どういうこと?」系の話をしてくれ、正直、私は好きで、長距離通勤しているので、「まぁ、まぁ…」って、思ってましたが、本当に、心、優しい人なんだなぁって思いましたよ。
あ、中生協のことを書こうと思って、書き始めたのですが、すっかり、横道にそれにそれましたので、もう、ついでだから、ついでのついで話ばかりを綴ってみます。
中生協は、後にします。
中生協の合宿が終わった後に、男子2名をお疲れさんで、私の新築のお家に招待しました。
そう、生徒を家に入れたのは、後にも先にも君たちだけです。
気持ちがそうだったんだよね。普通しないけど、まぁ、良いだろう。って。
ちょうど、北上が芸能祭りの最終日。花火の日。
君ら家の人に送られてきて、北上駅で待ち合わせしたよね。
その日、ラーメンを食べさせてあげるよと私が、スープとチャーシュー、煮卵を作って、お待ち申し上げておりましたよ。
ご飯食べて、歩いて花火見に行って、てくてく、また、歩いて帰ってきて。
夏の暑い盛りだから、家に冷房きかせていたことを覚えています。
今にしてみれば、私自身、自分のやりたいこと、本当にやりたいようにやっていたんだよね…
これは、今じゃ、できないよね。
それも、お家の人も協力的に見ていてくれたんだよね。
そういう意味でもとっても貴重な時間を過ごさせてもらったと思います。
今日は意図せず、とりとめのない話になりまして、次回、中生協について書きます。
つづく。
今日もチャリ通。ちょっと薄着。
あと、やらかした仕事の処理が進んできました。今日、持っていってもらったよ。
後処理が終わってきた感。あとは、持ってきてもらうだけ。
ごめんなさい。本当に。時々やるんだよね…結構なこと…
あと、総合的な学習の時間のめどが少したってきました。
4月は計画の月。
週末の予定も入れられたし…って、電話している横で、さらに追加か?
冷静に考えるとそれと一緒ですかい…
その後、柔剣に行って、見ていたら、そうは考えたが、かなり気持ちがニュートラになっていたことに気づき…
昨日は、教え子くんの突っ込みメッセージの方が、頭を占領し…
うん、あまり頭が良さ過ぎると…行き遅れるぞ(わたしのように…かな?)
なんて考えて、ほほえましく思ったり…かな?意地悪か??
いずれ、気分、上々。今日は鼻歌交じりで帰宅。
昨日から、福山バージョン「最愛」と「KISSして」が流れています。
昨日、気持ちよく車で歌ってたよ~♪
そのうち、めっちゃ、カラオケで歌ったる…
ちなみに、声質合わせるなら、私、彼の歌、とっても得意です。
音程が合わせやすいのですよ。声域が同じと言えば良いかな?
なお、彼が好きな人の横で歌うとイメージが…って、いやがられます。
だった、今日から、ガリレオじゃん。
でさ、当然、主題歌変わるんだろうな…柴崎いなくなるし…
さ、春だし。さ…
あと、やらかした仕事の処理が進んできました。今日、持っていってもらったよ。
後処理が終わってきた感。あとは、持ってきてもらうだけ。
ごめんなさい。本当に。時々やるんだよね…結構なこと…
あと、総合的な学習の時間のめどが少したってきました。
4月は計画の月。
週末の予定も入れられたし…って、電話している横で、さらに追加か?
冷静に考えるとそれと一緒ですかい…
その後、柔剣に行って、見ていたら、そうは考えたが、かなり気持ちがニュートラになっていたことに気づき…
昨日は、教え子くんの突っ込みメッセージの方が、頭を占領し…
うん、あまり頭が良さ過ぎると…行き遅れるぞ(わたしのように…かな?)
なんて考えて、ほほえましく思ったり…かな?意地悪か??
いずれ、気分、上々。今日は鼻歌交じりで帰宅。
昨日から、福山バージョン「最愛」と「KISSして」が流れています。
昨日、気持ちよく車で歌ってたよ~♪
そのうち、めっちゃ、カラオケで歌ったる…
ちなみに、声質合わせるなら、私、彼の歌、とっても得意です。
音程が合わせやすいのですよ。声域が同じと言えば良いかな?
なお、彼が好きな人の横で歌うとイメージが…って、いやがられます。
だった、今日から、ガリレオじゃん。
でさ、当然、主題歌変わるんだろうな…柴崎いなくなるし…
さ、春だし。さ…
3年生のとき。
いろいろあってのこの年度始まり。
いや~、校内人事の書き方間違って、
3年生と1年生を間違えて希望を出しました。
校長先生も直接聞けば良いのですが、私のことだから、何か意味があるかと思って、ほかの人に聞いたようで、
ま、これも私が意味が分からない時があるということだろうか?
そんなこんなの忙しい3月、4月。
校長先生もかわりました。
4月、修学旅行。
実は、皆が自主研修している最中、学芸大学に寄ってました。
突然、訪問。それでも、大学の先生方、喜んで迎えてくれました。
午後になって、渋谷から攻め、ラフォーレで、生徒発見して、攻めていきました。
本当に、何にも悪いことが起きず、品川のホテル東京では、檜風呂、有明のワシントンホテルは、セミダブルの部屋でゆっくり過ごさせてもらいました。
実は、事前に、しっかり見学しての余裕のある修学旅行でした。
帰ってきては、「生徒総会」。
ここで、「自律」ってことを大々的に扱いました。
むろん、「校則の自律化」ってことを全面にして。
前回、書き忘れていたことを一つ書くと、生徒総会。そして、その議案書。何度も書き直させたっけ。
本当に、泣けるくらい書かせました。相当、きついことも言いました。
計画を立てるってとっても大事なことだと教えたい一心で。
こんなことをさせていると中学生だった私ともダブルわけでして
中学生だった私は、放送委員長で、生徒会執行部に所属しており、皆さんと同じように議案書を書いては、直され、の繰り返しをしていたのですよ。
実に、嫌だったと覚えていますが…
今にして思えば、あのとき、無茶苦茶の文章を読んで手直しをしてくれたってことは、実にありがたいことなんだよね。
だって、中学生の意味不明の文章。読むのきついもの…
これは先生になって、思ったこと。私の生徒会担当の小橋先生、ごめんなさい。でも、生徒会室にピース(たばこ)を持ってくるのは、どうかと…は、は…
「しん」くんが悩みにやんで、完成させたスローガン。
「ひとりひとりが輝ける学校」
生活記録ノートの先人の一言シリーズを全部、見て、それを参考にしましたね。
ずっと、2年生の後半から、考え込んだスローガンでしたね。
未だに私の家を探せば、このときの議案書は出てくると思います。
私にとっても思い入れのある議案書でした。
話を戻します、運動会。
大行事。順調に進みました。
しかし、あのとき、3年生の男子同士で、けんかしたのは驚いたね…
計算のないけんかなんてありえない。
って、私、怒ってました。
ひさお先生は、それだけ真剣にやっているんだよって言ってましたが、
私には、そんなこと考える余裕もなかったのですね…
計画を立てては、それを最後反省し、また、明日の計画を立てる。の繰り返し。
行事って、こうやるんだって、まさに、お手本通りの進み具合でした。
運動会無事、終わり、1学期が面談終わり、夏は、遠野地区中学校生徒会連絡協議会(中生協)の事務局校としての合宿。
校長先生の都合で、夏休みの中盤に合宿になりました。
長くなったので続きは、そろそろこの後としたいと思います。
最後に、この年の夏の中総体県大会サッカー競技。
中生協代表として「しん」くんが立派に歓迎の言葉を述べました。
練習までは見ていましたが、本番は、私は陸上の県大会に引率したので見られませんでしたが、その報告聞いて、あぁ、すっかり、この中学校は、変わったんだと実感したものです。
つづく
いろいろあってのこの年度始まり。
いや~、校内人事の書き方間違って、
3年生と1年生を間違えて希望を出しました。
校長先生も直接聞けば良いのですが、私のことだから、何か意味があるかと思って、ほかの人に聞いたようで、
ま、これも私が意味が分からない時があるということだろうか?
そんなこんなの忙しい3月、4月。
校長先生もかわりました。
4月、修学旅行。
実は、皆が自主研修している最中、学芸大学に寄ってました。
突然、訪問。それでも、大学の先生方、喜んで迎えてくれました。
午後になって、渋谷から攻め、ラフォーレで、生徒発見して、攻めていきました。
本当に、何にも悪いことが起きず、品川のホテル東京では、檜風呂、有明のワシントンホテルは、セミダブルの部屋でゆっくり過ごさせてもらいました。
実は、事前に、しっかり見学しての余裕のある修学旅行でした。
帰ってきては、「生徒総会」。
ここで、「自律」ってことを大々的に扱いました。
むろん、「校則の自律化」ってことを全面にして。
前回、書き忘れていたことを一つ書くと、生徒総会。そして、その議案書。何度も書き直させたっけ。
本当に、泣けるくらい書かせました。相当、きついことも言いました。
計画を立てるってとっても大事なことだと教えたい一心で。
こんなことをさせていると中学生だった私ともダブルわけでして
中学生だった私は、放送委員長で、生徒会執行部に所属しており、皆さんと同じように議案書を書いては、直され、の繰り返しをしていたのですよ。
実に、嫌だったと覚えていますが…
今にして思えば、あのとき、無茶苦茶の文章を読んで手直しをしてくれたってことは、実にありがたいことなんだよね。
だって、中学生の意味不明の文章。読むのきついもの…
これは先生になって、思ったこと。私の生徒会担当の小橋先生、ごめんなさい。でも、生徒会室にピース(たばこ)を持ってくるのは、どうかと…は、は…
「しん」くんが悩みにやんで、完成させたスローガン。
「ひとりひとりが輝ける学校」
生活記録ノートの先人の一言シリーズを全部、見て、それを参考にしましたね。
ずっと、2年生の後半から、考え込んだスローガンでしたね。
未だに私の家を探せば、このときの議案書は出てくると思います。
私にとっても思い入れのある議案書でした。
話を戻します、運動会。
大行事。順調に進みました。
しかし、あのとき、3年生の男子同士で、けんかしたのは驚いたね…
計算のないけんかなんてありえない。
って、私、怒ってました。
ひさお先生は、それだけ真剣にやっているんだよって言ってましたが、
私には、そんなこと考える余裕もなかったのですね…
計画を立てては、それを最後反省し、また、明日の計画を立てる。の繰り返し。
行事って、こうやるんだって、まさに、お手本通りの進み具合でした。
運動会無事、終わり、1学期が面談終わり、夏は、遠野地区中学校生徒会連絡協議会(中生協)の事務局校としての合宿。
校長先生の都合で、夏休みの中盤に合宿になりました。
長くなったので続きは、そろそろこの後としたいと思います。
最後に、この年の夏の中総体県大会サッカー競技。
中生協代表として「しん」くんが立派に歓迎の言葉を述べました。
練習までは見ていましたが、本番は、私は陸上の県大会に引率したので見られませんでしたが、その報告聞いて、あぁ、すっかり、この中学校は、変わったんだと実感したものです。
つづく
暖かい日。ここまで暖かくなるとウキウキしますね…
で、早速、質問もらいまして、桜は、まだか。

これが、うちの庭の「杏」の木の状況。
桜は、これより後に咲きますから、まだかな?芽吹いてきたって感じです。
今日は、とりあえず、お勉強して、
うむ、穴埋め問題で、選択肢があれば、学習指導要領のあたりは、8割方入れられます
これは、普段からよく見ているからできるんでしょうね…
その他、半分は、勉強しなくても、今までの知識で答えられそう。
伊達に、研究主任6年目じゃないなぁ…今年、採用17年目ですが…
終わって、ドライブ&買い物&温泉。
ジャケ、買いました。ちょっと、薄いやつ。
最近のスーツ系って、細身に出来ているので、太っているときには、きついけど、やせてくると実に心地よいです。フィット感最高。体の綺麗な線が出るし…
温泉で、計量したら、おぉ、この重量を待ってましたのラインに入りました。
最近、ちょっと手抜きしていたので、心配しておりましたが、さすがにカロリー計算して、自転車にのっていりゃあの結果です。
これ以上のダイエットは、このところ、挑戦していないので、これからは、ここ最近では、未知の領域です。
あ、雑誌「Tarzan」、特集が自転車でした。
ファッション雑誌見てきたけど、綺麗な体の線になってきたので、いろいろと試せそうです。
帰り道、ちょっと遠回りしてきました。今日もお仕事なんだね…お疲れ様。
今日は、この天気で干ししっかり乾いた寝具で寝られます。
車、汚れが気になります。が、いまいち、洗ってないなぁ…
そろそろ高圧洗浄機の出番か?何でもあるからなぁ…
あとは、やる気次第だね…
BS復活して、良かった日曜日。
何だかんだで、うまくいけそうじゃん。
で、早速、質問もらいまして、桜は、まだか。
これが、うちの庭の「杏」の木の状況。
桜は、これより後に咲きますから、まだかな?芽吹いてきたって感じです。
今日は、とりあえず、お勉強して、
うむ、穴埋め問題で、選択肢があれば、学習指導要領のあたりは、8割方入れられます
これは、普段からよく見ているからできるんでしょうね…
その他、半分は、勉強しなくても、今までの知識で答えられそう。
伊達に、研究主任6年目じゃないなぁ…今年、採用17年目ですが…
終わって、ドライブ&買い物&温泉。
ジャケ、買いました。ちょっと、薄いやつ。
最近のスーツ系って、細身に出来ているので、太っているときには、きついけど、やせてくると実に心地よいです。フィット感最高。体の綺麗な線が出るし…
温泉で、計量したら、おぉ、この重量を待ってましたのラインに入りました。
最近、ちょっと手抜きしていたので、心配しておりましたが、さすがにカロリー計算して、自転車にのっていりゃあの結果です。
これ以上のダイエットは、このところ、挑戦していないので、これからは、ここ最近では、未知の領域です。
あ、雑誌「Tarzan」、特集が自転車でした。
ファッション雑誌見てきたけど、綺麗な体の線になってきたので、いろいろと試せそうです。
帰り道、ちょっと遠回りしてきました。今日もお仕事なんだね…お疲れ様。
今日は、この天気で干ししっかり乾いた寝具で寝られます。
車、汚れが気になります。が、いまいち、洗ってないなぁ…
そろそろ高圧洗浄機の出番か?何でもあるからなぁ…
あとは、やる気次第だね…
BS復活して、良かった日曜日。
何だかんだで、うまくいけそうじゃん。
今日2度目。さらにまだ午前中なのに…
10年前の話は、順調に推移します。
最後まで、書き終えましての投稿です。
で、自分と向き合ってみよう企画なので、昔の教え子に友達申請、自分からしてみています。
そういう気分なので、おつきあいを…
多分、そのうち、気分、変わるかも…
そ、1週間前は、何とも気持ちがぐちゃぐちゃしてしまって…
月曜日、買い物に行くとき、年下に相談したらスッキリしてきました。
重要なのは、自分自身が楽しんでいるかってこと。
そこで、苦しくなってどうするのですか…だよね…
でも、2、3日は気分が晴れませんでしたよ…
でも、今は、今日の天気まではいかなくても良い感じ。
一歩抜けた感じ。ちょっと楽しんでる。きっと。
今、PC前で、"YUI"の"HELLO"聞いていると、歌詞が気になって、ネットで調べてまして…
く、く、くって笑いそうになってます。
気持ちに余裕出てきてます。
頭を占める割合も相当、減少。
ま、方向性は自分で決めればよいだ…ね。
今日はあと、また、洗濯して、掃除して、勉強して、お出かけして…
天気良いから気分、上々。
10年前の話は、順調に推移します。
最後まで、書き終えましての投稿です。
で、自分と向き合ってみよう企画なので、昔の教え子に友達申請、自分からしてみています。
そういう気分なので、おつきあいを…
多分、そのうち、気分、変わるかも…
そ、1週間前は、何とも気持ちがぐちゃぐちゃしてしまって…
月曜日、買い物に行くとき、年下に相談したらスッキリしてきました。
重要なのは、自分自身が楽しんでいるかってこと。
そこで、苦しくなってどうするのですか…だよね…
でも、2、3日は気分が晴れませんでしたよ…
でも、今は、今日の天気まではいかなくても良い感じ。
一歩抜けた感じ。ちょっと楽しんでる。きっと。
今、PC前で、"YUI"の"HELLO"聞いていると、歌詞が気になって、ネットで調べてまして…
く、く、くって笑いそうになってます。
気持ちに余裕出てきてます。
頭を占める割合も相当、減少。
ま、方向性は自分で決めればよいだ…ね。
今日はあと、また、洗濯して、掃除して、勉強して、お出かけして…
天気良いから気分、上々。
みんなが、2年生になる前に、私の役職が変わりました。
生徒指導部長。もちろん、プラス、後期の生徒会担当。
この話には、ひさお先生の登場なくして語れないので、登場させてしまいますが…
ひさお先生が、何と、教務主任になってしまいました。
当時、まだ、研究主任で手一杯だった私は、できれば、次の年も研究主任をしたいと思って、校内人事希望を出しましたが…
いきなり、校長室に呼ばれ、校長室に
「ま、たばこでも吸うかい。ところで、おまえさん、何歳になった。
そっか、ちょうど30歳か。じゃ、いいな。大台載ったし…」
くらいの話(校長先生は、多分、たくさん考えた結果の選択だったとは、今にして思いますが…なにせ、若造でしたからそんな考えは、ありませんでしたが)で、イエスかノーかの選択でしたので、ノーの選択権はないと思い、引き受けました。
当時、そんな大それた提案を引き受けるのは正直、とっても気が引けたのは事実です。
遠野の指導部長って大先生がなるのが普通だったし…
いずれにせよ、30にして、指導部長になった私は、苦労が多かったです。
指導会が行われると当然、行かなければならなし、
実際、そこにいたところで、誰だよ、こいつってくらいの人だし…
ま、生徒にとっては、それなりだけど、保護者にとってはどうかなって感じでしたしね…
この仕事、1年で無事に終わるのですが、年度末に他の先生に譲ったら、本当にスッキリしました。って、いう一年でした。
そして、この年、特に覚えているのは、生徒指導部長として、運動会の計画を立てたこと。
特にも、得点の変更をして、優勝するには、作戦が必要だという形を作った運動会にしました。
これは、前任校で行われた形式をまねたもの。
ちょっと複雑なのですが、この時の生徒会事務局長の「ようこ」さんは、賢く、すべてを理解して、全校に提案してくれました。
この年の3年生は、「かよこ」先生のクラスですが、このクラスの女の子は、賢い子が多かったかな?今思えば、肉食系女子って感じだったのですが。
(「かよこ」先生は、この年、私の後を継いで、研究主任。「ふる」ちゃんの計画をそのままやってるんだよって感じのことを言ってました。)
運動会に話を戻します。
この計画変更によって、たくさん頭を使ってもらう運動会を一生懸命にやってもらいました。
これは、この年、生徒指導の発表会で、たまたま?順番で、発表者になり、何人もの人に発表することになったのです。ま、これが、私の発表会デビューでもあるのですが…
その年、30歳だからね。だから、私は偉そうすぎるんだよ…
そして、後半に入り、生徒会を持つことになりました。
分かっていたのは、この学年が、中学校生徒会連絡協議会の事務局校になること。
だから、人については、吟味しました。
やっぱり、この中で、一番、成長したのは、「めぐみ」さんかな?
正直、1年生で出会ったことに、あれだけの人になるとは思っていませんでした。
もちろん、全員の成長は、私の予想以上でした。
私が、もっとも大事にしたのは、覚えているかい?
「人が喜ぶ姿をみて、喜べるのが本当のリーダー」
…あなたがやりたいことをするのが生徒会ではない。みんながどう楽しめるかを考えるのが生徒会です…
結構、歯の浮くような言葉だったかもしれないけど、ずっと、これだけは、徹底して教えてきたつもりです。
これは、行事が終わるたびに、しつこく反省させ…
とにかく、リーダーを育てること。
これは、頑張ったと思います。
そう、三年生を送る会の準備をしていた頃、インフルエンザが、流行して…
バレンタインのチョコを買いにって、列車でインフルエンザをうつされたバレー部の人たちがいて、完全に仕事が出来なくなる事態が発生しました。
そんなとき、私は、すっかり怒りモードになっていました。
何してるんだって…
ま、今に思えば、若かりし時代の苦い思い出。
それくらい、忙しく毎日働いていたんだなぁ…
ということで、2年生はくれていき、3年生に持ち上がりそうだとってことで、3月になりました。
続く。
生徒指導部長。もちろん、プラス、後期の生徒会担当。
この話には、ひさお先生の登場なくして語れないので、登場させてしまいますが…
ひさお先生が、何と、教務主任になってしまいました。
当時、まだ、研究主任で手一杯だった私は、できれば、次の年も研究主任をしたいと思って、校内人事希望を出しましたが…
いきなり、校長室に呼ばれ、校長室に
「ま、たばこでも吸うかい。ところで、おまえさん、何歳になった。
そっか、ちょうど30歳か。じゃ、いいな。大台載ったし…」
くらいの話(校長先生は、多分、たくさん考えた結果の選択だったとは、今にして思いますが…なにせ、若造でしたからそんな考えは、ありませんでしたが)で、イエスかノーかの選択でしたので、ノーの選択権はないと思い、引き受けました。
当時、そんな大それた提案を引き受けるのは正直、とっても気が引けたのは事実です。
遠野の指導部長って大先生がなるのが普通だったし…
いずれにせよ、30にして、指導部長になった私は、苦労が多かったです。
指導会が行われると当然、行かなければならなし、
実際、そこにいたところで、誰だよ、こいつってくらいの人だし…
ま、生徒にとっては、それなりだけど、保護者にとってはどうかなって感じでしたしね…
この仕事、1年で無事に終わるのですが、年度末に他の先生に譲ったら、本当にスッキリしました。って、いう一年でした。
そして、この年、特に覚えているのは、生徒指導部長として、運動会の計画を立てたこと。
特にも、得点の変更をして、優勝するには、作戦が必要だという形を作った運動会にしました。
これは、前任校で行われた形式をまねたもの。
ちょっと複雑なのですが、この時の生徒会事務局長の「ようこ」さんは、賢く、すべてを理解して、全校に提案してくれました。
この年の3年生は、「かよこ」先生のクラスですが、このクラスの女の子は、賢い子が多かったかな?今思えば、肉食系女子って感じだったのですが。
(「かよこ」先生は、この年、私の後を継いで、研究主任。「ふる」ちゃんの計画をそのままやってるんだよって感じのことを言ってました。)
運動会に話を戻します。
この計画変更によって、たくさん頭を使ってもらう運動会を一生懸命にやってもらいました。
これは、この年、生徒指導の発表会で、たまたま?順番で、発表者になり、何人もの人に発表することになったのです。ま、これが、私の発表会デビューでもあるのですが…
その年、30歳だからね。だから、私は偉そうすぎるんだよ…
そして、後半に入り、生徒会を持つことになりました。
分かっていたのは、この学年が、中学校生徒会連絡協議会の事務局校になること。
だから、人については、吟味しました。
やっぱり、この中で、一番、成長したのは、「めぐみ」さんかな?
正直、1年生で出会ったことに、あれだけの人になるとは思っていませんでした。
もちろん、全員の成長は、私の予想以上でした。
私が、もっとも大事にしたのは、覚えているかい?
「人が喜ぶ姿をみて、喜べるのが本当のリーダー」
…あなたがやりたいことをするのが生徒会ではない。みんながどう楽しめるかを考えるのが生徒会です…
結構、歯の浮くような言葉だったかもしれないけど、ずっと、これだけは、徹底して教えてきたつもりです。
これは、行事が終わるたびに、しつこく反省させ…
とにかく、リーダーを育てること。
これは、頑張ったと思います。
そう、三年生を送る会の準備をしていた頃、インフルエンザが、流行して…
バレンタインのチョコを買いにって、列車でインフルエンザをうつされたバレー部の人たちがいて、完全に仕事が出来なくなる事態が発生しました。
そんなとき、私は、すっかり怒りモードになっていました。
何してるんだって…
ま、今に思えば、若かりし時代の苦い思い出。
それくらい、忙しく毎日働いていたんだなぁ…
ということで、2年生はくれていき、3年生に持ち上がりそうだとってことで、3月になりました。
続く。
今日2回目の投稿。
ブレイクタイム入れてみるよ…
今日は、かの学校の話を全部書き終えて、帰ってきたよ…
ストーリー全部書けたよ。
最終的な結論を書けないとイライラするたちだから、とりあえず、最後まで書けて、スッキリした。
そういう意味では、充実した一日だったよ…
これから、毎日、載せていくよ…楽しみにしていて…
さて、明日は、朝から、今朝の続きを掲載します。
ブレイクタイム入れてみるよ…
今日は、かの学校の話を全部書き終えて、帰ってきたよ…
ストーリー全部書けたよ。
最終的な結論を書けないとイライラするたちだから、とりあえず、最後まで書けて、スッキリした。
そういう意味では、充実した一日だったよ…
これから、毎日、載せていくよ…楽しみにしていて…
さて、明日は、朝から、今朝の続きを掲載します。
昨日の続き。
今日は、朝からアップします。
立派そうに書いているが、優柔不断な私だから、必ずしも、すべてがうまくいっているわけでもなく、無論、周りの人たちの協力があってこその結末でもあります。
みなさんが4月に入って、学校は大きく変わりました。
特に、新3年生が良かった。一気に、学校の雰囲気が変わりました。
何が良いかというと、まず、考え方が正常になったこと。
努力を惜しまなくなったこと。
私は、この年、この3年生の社会のみならず、選択技術をやっていました。
選択技術の授業の多くは、学校を綺麗に直すこと。
学校にも愛着を持って欲しかったんだよね。
こんな無茶苦茶な授業に何人か、参加してくれたんだね。
とにかく、木造校舎だから、磨けば綺麗になってくる。それを磨いた後に、ニスを塗って、仕上げる。さぁ、やすりを持って、集合。って感じ。
彼女たち、今何してるかな?
そして、彼らは行事も一生懸命にやってくれました。
これは、1年生に入ってきた君たちが、ちゃんとあこがれをもってくれるくらい。
無論、クラブだって、そう、勉強だって頑張っていました。
これは、何より、このクラスを担任していた上山先生が、3年間の見通しを持って、生徒を育ててくれたからだと正直に思えます。
あと、これは、いつか、私が研究主任になった理由を書いてみたいので、そこで、理由については、載せるとして。簡単に書きます。
端的に言うと、「総合的な学習の時間」の組み直しをしたかったのです。
当時、学校研究というと「総合的な学習の時間」の研究が多く、それがメインになっていたのです。私がしたかったのは、かの学校で言う「綾織人学習」のあり方の組み直し。
何せ、私が来た時の「綾織人学習」は、名前だけが一人歩きして、論理のない中身のない学習の時間でした。
分かっていましたが、前年の冬にそこをズバッと、市の発表会で某校長先生に指摘され…
こっちは、大変な思いしているのに、そこまで言う必要あるかい…って、思うくらい。
冷静に考えれば、確かに何ら、考えもなく、名前だけ考えて、ただ、やらせていたのも事実だし(この業界で言う「ただ、やらせている」ってやつ)。
これを解消するには、しっかりとした論理と、その構成。
これをしっかりとした文章として、表さないと。
誰が見ても、こうやってます。という形。
実際、計画は4月が勝負。
家庭訪問に行く前の忙しい時期に、たくさんの本を参考に、まとめていました。
当時、夜遅くまで残って。
とにかく、若くて、今じゃ考えられないくらい、無我夢中で働きました。
後に、この「綾織人学習」は、市の発表会、教育センターでも発表されるくらいのモデルケースになったのですが…
そ、あの君たちが3年生の時の演劇は、私がみんなが1年生のときに、立てた計画の集大成だったのですよ。
ま、担任しながら、研究主任をして、って生活は、今考えると、よくやったものだと思うのです。
当然、初めての仕事だったので、研修会(確か、3日間みっちり)などにも参加して、その基礎を勉強したりもしたしね。
クラスに話を戻すと、学級は、やはり、学級のお母さんと言われた「あゆか」さんの活躍なしには、語れないかもね。
正直、学級の心配事は、彼女と「よしえ」さんに頼りっきりだったと思います。
何せ、男子4対女子17人というクラス構成は、実にいびつで、当時(今も?)若い独身男性であった私にとっては、驚異と言うほかないですね。
それをうまく、まとめたくれたのは、彼女たちのおかげです。
そして、男子は、結局、リーダーになってくれそうな素材は、2人。
だから、無論、君のこともしっかり育てないと思っていたのは確か。
そう、だいたい、簡単に書いたけど、優秀な3年生の下、あぁなれればというあこがれを抱ける上の学年がいて、本当に良かったと思います。
そんなこんなで、1年が過ぎました。
あ、ついでに
こんなことを書くと、あのとき、おまえ、転勤希望出したんじゃん…って、某先生につっかまれそうですので、それも書いておきます。
この年に私は…
できれば、この学校から離れたいとも考えていたり、いなかったりという状況も確かで…
ただ、勤務2年目。絶対に希望出したって通らないのを分かっていたので、ある意味、ちょっと、大人げなく反抗してみた…って、感じの若気の至りですが。
正直、中学校生徒会連絡協議会の事務局校は、大変なので、それは、避けられるものなら避けたいというのもありました。
「めぐみ」さんが、生徒会執行部の時、「苦労は買ってでもしろ」というのが心情です的な発言をしてましたが、私は、苦労は、出来るだけしたくないたちで、苦労しないにはどうするれば良いかを考えて、行動するたちなので。
あと、やっぱり、この人事異動。実に腹ただしい限りの制度。
なんで、人が荒らした学校の世話を、他から来た人がしなければならないのかという、理不尽さに対する怒りみたいなのが沸々とありまして。
いつか、私の「やんちゃストーリー」もまとめてみたいとは思います。
これにも続きはあるので…
とにかく、立派なことを書いているようで、私自身、結構、揺れているのは事実であり
ま、20代くらいは、何だかんだ、失敗したって、良いじゃん。
(君たちに会ったのは、29歳。最後の20代の年でした。)
その時その時、考え悩んで、でも、楽しんで。ってことです。
そして、2年生に続く。
今日は、朝からアップします。
立派そうに書いているが、優柔不断な私だから、必ずしも、すべてがうまくいっているわけでもなく、無論、周りの人たちの協力があってこその結末でもあります。
みなさんが4月に入って、学校は大きく変わりました。
特に、新3年生が良かった。一気に、学校の雰囲気が変わりました。
何が良いかというと、まず、考え方が正常になったこと。
努力を惜しまなくなったこと。
私は、この年、この3年生の社会のみならず、選択技術をやっていました。
選択技術の授業の多くは、学校を綺麗に直すこと。
学校にも愛着を持って欲しかったんだよね。
こんな無茶苦茶な授業に何人か、参加してくれたんだね。
とにかく、木造校舎だから、磨けば綺麗になってくる。それを磨いた後に、ニスを塗って、仕上げる。さぁ、やすりを持って、集合。って感じ。
彼女たち、今何してるかな?
そして、彼らは行事も一生懸命にやってくれました。
これは、1年生に入ってきた君たちが、ちゃんとあこがれをもってくれるくらい。
無論、クラブだって、そう、勉強だって頑張っていました。
これは、何より、このクラスを担任していた上山先生が、3年間の見通しを持って、生徒を育ててくれたからだと正直に思えます。
あと、これは、いつか、私が研究主任になった理由を書いてみたいので、そこで、理由については、載せるとして。簡単に書きます。
端的に言うと、「総合的な学習の時間」の組み直しをしたかったのです。
当時、学校研究というと「総合的な学習の時間」の研究が多く、それがメインになっていたのです。私がしたかったのは、かの学校で言う「綾織人学習」のあり方の組み直し。
何せ、私が来た時の「綾織人学習」は、名前だけが一人歩きして、論理のない中身のない学習の時間でした。
分かっていましたが、前年の冬にそこをズバッと、市の発表会で某校長先生に指摘され…
こっちは、大変な思いしているのに、そこまで言う必要あるかい…って、思うくらい。
冷静に考えれば、確かに何ら、考えもなく、名前だけ考えて、ただ、やらせていたのも事実だし(この業界で言う「ただ、やらせている」ってやつ)。
これを解消するには、しっかりとした論理と、その構成。
これをしっかりとした文章として、表さないと。
誰が見ても、こうやってます。という形。
実際、計画は4月が勝負。
家庭訪問に行く前の忙しい時期に、たくさんの本を参考に、まとめていました。
当時、夜遅くまで残って。
とにかく、若くて、今じゃ考えられないくらい、無我夢中で働きました。
後に、この「綾織人学習」は、市の発表会、教育センターでも発表されるくらいのモデルケースになったのですが…
そ、あの君たちが3年生の時の演劇は、私がみんなが1年生のときに、立てた計画の集大成だったのですよ。
ま、担任しながら、研究主任をして、って生活は、今考えると、よくやったものだと思うのです。
当然、初めての仕事だったので、研修会(確か、3日間みっちり)などにも参加して、その基礎を勉強したりもしたしね。
クラスに話を戻すと、学級は、やはり、学級のお母さんと言われた「あゆか」さんの活躍なしには、語れないかもね。
正直、学級の心配事は、彼女と「よしえ」さんに頼りっきりだったと思います。
何せ、男子4対女子17人というクラス構成は、実にいびつで、当時(今も?)若い独身男性であった私にとっては、驚異と言うほかないですね。
それをうまく、まとめたくれたのは、彼女たちのおかげです。
そして、男子は、結局、リーダーになってくれそうな素材は、2人。
だから、無論、君のこともしっかり育てないと思っていたのは確か。
そう、だいたい、簡単に書いたけど、優秀な3年生の下、あぁなれればというあこがれを抱ける上の学年がいて、本当に良かったと思います。
そんなこんなで、1年が過ぎました。
あ、ついでに
こんなことを書くと、あのとき、おまえ、転勤希望出したんじゃん…って、某先生につっかまれそうですので、それも書いておきます。
この年に私は…
できれば、この学校から離れたいとも考えていたり、いなかったりという状況も確かで…
ただ、勤務2年目。絶対に希望出したって通らないのを分かっていたので、ある意味、ちょっと、大人げなく反抗してみた…って、感じの若気の至りですが。
正直、中学校生徒会連絡協議会の事務局校は、大変なので、それは、避けられるものなら避けたいというのもありました。
「めぐみ」さんが、生徒会執行部の時、「苦労は買ってでもしろ」というのが心情です的な発言をしてましたが、私は、苦労は、出来るだけしたくないたちで、苦労しないにはどうするれば良いかを考えて、行動するたちなので。
あと、やっぱり、この人事異動。実に腹ただしい限りの制度。
なんで、人が荒らした学校の世話を、他から来た人がしなければならないのかという、理不尽さに対する怒りみたいなのが沸々とありまして。
いつか、私の「やんちゃストーリー」もまとめてみたいとは思います。
これにも続きはあるので…
とにかく、立派なことを書いているようで、私自身、結構、揺れているのは事実であり
ま、20代くらいは、何だかんだ、失敗したって、良いじゃん。
(君たちに会ったのは、29歳。最後の20代の年でした。)
その時その時、考え悩んで、でも、楽しんで。ってことです。
そして、2年生に続く。
一昨日、書きましたら、早速、mixiにメッセージをもらいまして…
何気に、返事を書くのもどうかとも思いますが…
ま、君のいた頃のかの中学校のことでも書こうかと思います。
これが、まさに、私の「問題解決能力」ってあたりを。
私が赴任したころは、かの中学校は、だれも赴任したいと考えるような学校ではなく。 着任した頃は、頑張りますとか言っていたものの不安だらけの毎日でした。
最初、自分は何かを期待されてきたものか思っていましたが、どうやらそうでもなく
もしかして、俺って捨て駒?くらいのストレス感でした。
当時、キンキキッズの「フラワー」が朝の音楽だったので、あれを聞くたびに、あぁ、今日も無事に終われば良いって、覇気がなく通勤していたのを思い出します。
ま、原因もあってのことで、今に思えば、当時、通っていた生徒も、かわいそうだったと思えば、そうなんだと思います。
が、私は、あのとき、悪さした人たちは、「ごめんなさい」って、言わないと会わないけどね…(^□^)
その当時の不満の原因を簡単にあげると
1.校則の変更。男子の頭髪が、坊主っていうのが変更できないかという問題。
2.学校と地域がうまくいっていない。
この2つが大きいのですよ。そして、1の校則変更をするには、生徒のみならず、2の地域の方々の了承も必要なわけでして…
学校は、地域に根ざしており、たとえ、生徒の髪のことだって、ずっと続いた伝統をむげに無視はできないのです。
前任校では、2年生の担任をしており、当然、1,2年持ち上がりの初担任。生徒会担当。それを無理にはがされるように、転勤させられたので、未練たらたら。それも口に出せない。
そして、転勤では、3年担任。しかも、初3年担任。さらに、なんと生徒会も担当。 今にして思えば、こんな逆境で、よく生き延びたという感じです。
いずれ、このあたりは、後で書くとして…
このときの優秀な私のクラスの生徒が、隣の小学校の先生になったというのも何かの縁か?もしかして、当時の校長先生→現教育長の差し金か。ってのは、冗談。
(偶然にしてもよくできた偶然だ(^_-))
ま、いずれにせよ、1年間、すっかり疲れ切った私は、次の年は、休みたかった訳で、
真剣に、副担希望、研究主任希望で校内人事を出しました。
そ、次来る児童だって、前評判が良いていうわけでもなかったし…
ま、希望は希望で。
29歳にして研究主任って役職になってしまい、担任、当たり前でしょうの世界で、兼務してのみなさんの学級の担任に決定しました。
それならば、そうなったので仕方がない。
私の最初の仕事は、当時、ぼろぼろになった机をとにかく、直すこと。
遠野の学校の机は、全体が木製でしたので、天板を外して、毎日、それをベルトサンダーに掛ける。穴を埋めて…
全部、終わって、それをニスで塗って、完成。
全部の机を直しました。毎日、技術室に通って…
そういう意味で、本当に頑張りました。
この話は、第一回の学級通信に載せたはず。
この生徒は、多分、3年間持つことになるだろう。
(私の人生で、何度、1~3年まで持てるだろう。実は、これ以降、1~3年まで持てたことはない。最初で最後?)
だから、これからの戦略もちゃくちゃくと考えました。
まずは、これからのことをしっかり考えてみました。
これが「校則の自律化」。
頭髪自由化でもなく、校則改善でもなく、「校則の自律化」。
これは、来た当時から考えてみました。
あいにく、1年目にはそれをどうこう実行するほどの力はありませんでしたが。
「校則の自律化」。理論を考え出しました。皆が納得できるよう。
そして、地域に認められる学校にする。
この学年は、3年生の時に、遠野地区中学校生徒会協議会の事務局校になるのは分かっていましたので、正直、その生徒会担当になるのは、二の足を踏むわけですが、ま、なってしまったものは仕方がない。これを最大限利用しないと…
いずれ、この戦略を達成するには、あるべき姿を考えないとならない。
しっかりとした学級経営とリーダー育成。
だから、学級もこだわりました。
学級リーダーは、しっかり選ばせる。いろいろと考える視点を与える。
とにかく、班替えにはこだわりました。
絶対、ただ、やりたいからでは、班替えはしない。
最も小さい集団を育てる上で、大事な組織であるから。
あと、リーダーは、よく見て決めておりましたが、
一番は、強力で、人前でどうどうと話せる人物。
もう、しんくんには、すぐに目を付け、1年生の4月の家庭訪問で、将来、生徒会長にしたいって、お父さんに話したと覚えています。(ゴメン、実名を出して)
お父さん、とっても良い人で、こんな素っ頓狂な私の話もまじめに聞いてくれ、
後々は、先生のこと好きなんだよ … って、言ってくれたり。
何より、あの学級の家の人との信頼関係も大きかったなと思います。
ま、ここまでは、皆を迎えるまでと1年の4月くらいまでを書いてみました。
そうだな、あのとき、先生は何を考えて、僕たちを指導してきたのだろう?
とっても良い視点ですね。
そ、私も少し忘れかけたいたこと思い出したよ。
私くらいの頭だと10年くらいたってもほぼ、リアルに昔のこと覚えていますので
文って、そのとき書いた方が、良いときもあるかもしれませんが、もっと、離れて冷静になったときにかくのもありかと思います。
正直、小説「セカチュウ」を読んだとき、これって若い人が書いているのだろうか?って思って、最初読んだけど、実は、40を過ぎた人が書いた本だと分かってビックリしたのを覚えています。
もしかしたら、それくらい落ち着いた方が、みずみずしい文章を書けるかもしれないね。
さて、さすがに長くなりますので、この後は続きとします。
つづく…
何気に、返事を書くのもどうかとも思いますが…
ま、君のいた頃のかの中学校のことでも書こうかと思います。
これが、まさに、私の「問題解決能力」ってあたりを。
私が赴任したころは、かの中学校は、だれも赴任したいと考えるような学校ではなく。 着任した頃は、頑張りますとか言っていたものの不安だらけの毎日でした。
最初、自分は何かを期待されてきたものか思っていましたが、どうやらそうでもなく
もしかして、俺って捨て駒?くらいのストレス感でした。
当時、キンキキッズの「フラワー」が朝の音楽だったので、あれを聞くたびに、あぁ、今日も無事に終われば良いって、覇気がなく通勤していたのを思い出します。
ま、原因もあってのことで、今に思えば、当時、通っていた生徒も、かわいそうだったと思えば、そうなんだと思います。
が、私は、あのとき、悪さした人たちは、「ごめんなさい」って、言わないと会わないけどね…(^□^)
その当時の不満の原因を簡単にあげると
1.校則の変更。男子の頭髪が、坊主っていうのが変更できないかという問題。
2.学校と地域がうまくいっていない。
この2つが大きいのですよ。そして、1の校則変更をするには、生徒のみならず、2の地域の方々の了承も必要なわけでして…
学校は、地域に根ざしており、たとえ、生徒の髪のことだって、ずっと続いた伝統をむげに無視はできないのです。
前任校では、2年生の担任をしており、当然、1,2年持ち上がりの初担任。生徒会担当。それを無理にはがされるように、転勤させられたので、未練たらたら。それも口に出せない。
そして、転勤では、3年担任。しかも、初3年担任。さらに、なんと生徒会も担当。 今にして思えば、こんな逆境で、よく生き延びたという感じです。
いずれ、このあたりは、後で書くとして…
このときの優秀な私のクラスの生徒が、隣の小学校の先生になったというのも何かの縁か?もしかして、当時の校長先生→現教育長の差し金か。ってのは、冗談。
(偶然にしてもよくできた偶然だ(^_-))
ま、いずれにせよ、1年間、すっかり疲れ切った私は、次の年は、休みたかった訳で、
真剣に、副担希望、研究主任希望で校内人事を出しました。
そ、次来る児童だって、前評判が良いていうわけでもなかったし…
ま、希望は希望で。
29歳にして研究主任って役職になってしまい、担任、当たり前でしょうの世界で、兼務してのみなさんの学級の担任に決定しました。
それならば、そうなったので仕方がない。
私の最初の仕事は、当時、ぼろぼろになった机をとにかく、直すこと。
遠野の学校の机は、全体が木製でしたので、天板を外して、毎日、それをベルトサンダーに掛ける。穴を埋めて…
全部、終わって、それをニスで塗って、完成。
全部の机を直しました。毎日、技術室に通って…
そういう意味で、本当に頑張りました。
この話は、第一回の学級通信に載せたはず。
この生徒は、多分、3年間持つことになるだろう。
(私の人生で、何度、1~3年まで持てるだろう。実は、これ以降、1~3年まで持てたことはない。最初で最後?)
だから、これからの戦略もちゃくちゃくと考えました。
まずは、これからのことをしっかり考えてみました。
これが「校則の自律化」。
頭髪自由化でもなく、校則改善でもなく、「校則の自律化」。
これは、来た当時から考えてみました。
あいにく、1年目にはそれをどうこう実行するほどの力はありませんでしたが。
「校則の自律化」。理論を考え出しました。皆が納得できるよう。
そして、地域に認められる学校にする。
この学年は、3年生の時に、遠野地区中学校生徒会協議会の事務局校になるのは分かっていましたので、正直、その生徒会担当になるのは、二の足を踏むわけですが、ま、なってしまったものは仕方がない。これを最大限利用しないと…
いずれ、この戦略を達成するには、あるべき姿を考えないとならない。
しっかりとした学級経営とリーダー育成。
だから、学級もこだわりました。
学級リーダーは、しっかり選ばせる。いろいろと考える視点を与える。
とにかく、班替えにはこだわりました。
絶対、ただ、やりたいからでは、班替えはしない。
最も小さい集団を育てる上で、大事な組織であるから。
あと、リーダーは、よく見て決めておりましたが、
一番は、強力で、人前でどうどうと話せる人物。
もう、しんくんには、すぐに目を付け、1年生の4月の家庭訪問で、将来、生徒会長にしたいって、お父さんに話したと覚えています。(ゴメン、実名を出して)
お父さん、とっても良い人で、こんな素っ頓狂な私の話もまじめに聞いてくれ、
後々は、先生のこと好きなんだよ … って、言ってくれたり。
何より、あの学級の家の人との信頼関係も大きかったなと思います。
ま、ここまでは、皆を迎えるまでと1年の4月くらいまでを書いてみました。
そうだな、あのとき、先生は何を考えて、僕たちを指導してきたのだろう?
とっても良い視点ですね。
そ、私も少し忘れかけたいたこと思い出したよ。
私くらいの頭だと10年くらいたってもほぼ、リアルに昔のこと覚えていますので
文って、そのとき書いた方が、良いときもあるかもしれませんが、もっと、離れて冷静になったときにかくのもありかと思います。
正直、小説「セカチュウ」を読んだとき、これって若い人が書いているのだろうか?って思って、最初読んだけど、実は、40を過ぎた人が書いた本だと分かってビックリしたのを覚えています。
もしかしたら、それくらい落ち着いた方が、みずみずしい文章を書けるかもしれないね。
さて、さすがに長くなりますので、この後は続きとします。
つづく…
今日のこと。
昨日、ブログとmixiに書いた文を読んだ方から、このようなメッセージをmixiでもらいました。
「最後まで読みました。
なんか、先生とは3年間だけだったので、あまり先生の人生について深く踏み入る機会もなく…
25になるまで、ただなんとなーく過ごしてきましたが、いまこうしてお互いの価値観を簡単に共有できる空間があるおかげで、変な話ですが、IT技術が進むにつれて、未来を想像することよりも、逆に過去を振り返る機会が多くなったように思われます。
mixiやFacebookがそのいい例で、今日一日の出来事や今考えていることを家族や友人、親しい間柄にある人に対して発信していますが、ひょっとすると現代人は「過去の共有化」をはかることで、ある種の家族関係を形成し、無意識のうちに少子高齢化社会に対応しようとているのかもしれませんね!笑
まぁ、いつも通り私の馬鹿げた空想論ですから、誰にも相手にされないでしょうが…
もし、この仮説が成立するならば、先生には教え子という大家族が存在することになります。。
願わくば、教え子の一人として、いつまでも元気でいて欲しいと願っています!
いつの日か先生の思い出話をつまみに、会津の銘酒 飛露喜で一杯できる日を楽しみにしています。
遠い福島の地から、先生のご健康と益々のご活躍をお祈り申し上げます。 」
(引用終わり)
うれしい限りです。
ネット、SNSの普及は、様々な便利なツールとして、生活を便利にしてきています。
私が、読みました経営学の本でも、このSNSのことについて書いてありまして、
以前、「まちづくり」のことについて書いたとおり
コアになる拘束のきつい集団(例とすれば、学校とか地区会とか)と比較的ゆるい集団(SNSとかに代表される拘束性のあまりない集団)が、絡み合ってのコミニュティーが構成されていく時代になってくるかと思います。
無論、拘束のきつい集団の学校の学級から離れ、いずれ、このようにSNSのつながりに移行する集団もあるかと思います。
拘束性の強い集団が、かつて、実に心地よかった故の後の繋がりであり、その繋がりを継続的に持てるあたな自身が幸福に恵まれているということでしょう。
あなたが、何だかんだ、とっても純粋であり、とても、素直である故の幸福感でしょうね。
もちろん、すべてが完璧とは言えないとしてもさ…
さて、これをもらって、思ったのは、
そ、君たち、純粋だから、これには気をつけてね。ってことを一言。
いろいろと悩み事も多い年頃になるでしょう。
その時、本当に信用できるひとにちゃんと相談なさいね。
悩みを言えば、すっきるするとか、この人、きいてくれそうだから話すとか
そんな生き方をしては、後々、苦労するでしょうね。
その悩み。どうしたいの?
解決したいなら、解決したいという目標を持って、まず、それを少しでも解決してくれそうな人に相談しなさいね。
もし、ただ、聞いてもらいたいなら、占い師とか、全く、関係ない人に話をした方がましです。
無論、信用できて、話を聞いてもらうパートナーを見つけることは、究極のことかもしれないけど…
人は、まるで人の悩みを聞いているふりをして、こっち側(自分側)に引き入れようという人が結構いますから。
そういう人には、十分に気をつけて下さい。
純粋な心を持った人を見極められるのも大事な才能かもしれないけど…
・・・・・・・・・
何て思ってたり、昨日、こんな本が職場に参りました。
岩手県版中学校道徳資料集
「郷土の明日を見据えて~先人の生き方に学ぶ~」
もらったとき、正直、うわぁ~、復興予算の無駄遣いか?って、思って、読み始めました。
誰、この人?って、目次を見たり。
最初の「冨田 小一郎」。名前、分かりませんでした。
読みました。あ、この人、私がずっと知りたかった人だと気づきました。
「日本一の先生」
旧制盛岡中学、現在の盛岡第一高等学校の先生で、数多くの著名人を世に送り出した先生。
石川啄木、米内光政、板垣征四郎、田中館愛橘。
これら日本を代表する人たちを世に送り出した先生です。
私、この方、盛岡一高の生徒だったとき、生徒会誌で読みまして、
あぁ…先生になったら、こんな人になりたいって思った人でした。
(高校1年生頃まで、高校の先生になりたいと考えていましたし…)
その後、調べてもあまり資料がなく、名前すら忘れてしまいました。
なんたる偶然?
もしかして、この本の編集者は、あのときの同窓会誌と関わりのがある人?
第1番目に載せるなんて…
最後の話のフィナーレが、この「冨田 小一郎」先生を東京赤坂の料亭に呼んで、教え子たちが、謝恩会を開くシーンです。そこに「冨田」先生が出席して、かの有名な教え子と一緒にお酒を飲み、それが「日本一の幸福な先生」って新聞にのって名が知られるようになったと結んでいます。
この文の構成もあのとき見た生徒会誌の通り。
なんたる、タイミング。なんたる偶然。
ちょっと、目がうるうるしてきた…
私なども名もなき、ただの一教員。
みんながたくさん、活躍してくれることが、何よりも一番の楽しみです。
「日本一の幸福な先生」って、新聞に載りたいとは思いませんが、
市長になりたいとか大きな野望を持っている君も、頑張って欲しいなぁ…
などなど…
今日も長くなった…
若者よ、大志を抱け。
決して、ゆとり世代の困った人ではないさ。君たちは。
ファイト!
君たちの活躍を見られるよう、私も体力付けて、長生きするよ…きっと。
これは、私にも頑張れって言っているんだよなって思った今日です。
昨日、ブログとmixiに書いた文を読んだ方から、このようなメッセージをmixiでもらいました。
「最後まで読みました。
なんか、先生とは3年間だけだったので、あまり先生の人生について深く踏み入る機会もなく…
25になるまで、ただなんとなーく過ごしてきましたが、いまこうしてお互いの価値観を簡単に共有できる空間があるおかげで、変な話ですが、IT技術が進むにつれて、未来を想像することよりも、逆に過去を振り返る機会が多くなったように思われます。
mixiやFacebookがそのいい例で、今日一日の出来事や今考えていることを家族や友人、親しい間柄にある人に対して発信していますが、ひょっとすると現代人は「過去の共有化」をはかることで、ある種の家族関係を形成し、無意識のうちに少子高齢化社会に対応しようとているのかもしれませんね!笑
まぁ、いつも通り私の馬鹿げた空想論ですから、誰にも相手にされないでしょうが…
もし、この仮説が成立するならば、先生には教え子という大家族が存在することになります。。
願わくば、教え子の一人として、いつまでも元気でいて欲しいと願っています!
いつの日か先生の思い出話をつまみに、会津の銘酒 飛露喜で一杯できる日を楽しみにしています。
遠い福島の地から、先生のご健康と益々のご活躍をお祈り申し上げます。 」
(引用終わり)
うれしい限りです。
ネット、SNSの普及は、様々な便利なツールとして、生活を便利にしてきています。
私が、読みました経営学の本でも、このSNSのことについて書いてありまして、
以前、「まちづくり」のことについて書いたとおり
コアになる拘束のきつい集団(例とすれば、学校とか地区会とか)と比較的ゆるい集団(SNSとかに代表される拘束性のあまりない集団)が、絡み合ってのコミニュティーが構成されていく時代になってくるかと思います。
無論、拘束のきつい集団の学校の学級から離れ、いずれ、このようにSNSのつながりに移行する集団もあるかと思います。
拘束性の強い集団が、かつて、実に心地よかった故の後の繋がりであり、その繋がりを継続的に持てるあたな自身が幸福に恵まれているということでしょう。
あなたが、何だかんだ、とっても純粋であり、とても、素直である故の幸福感でしょうね。
もちろん、すべてが完璧とは言えないとしてもさ…
さて、これをもらって、思ったのは、
そ、君たち、純粋だから、これには気をつけてね。ってことを一言。
いろいろと悩み事も多い年頃になるでしょう。
その時、本当に信用できるひとにちゃんと相談なさいね。
悩みを言えば、すっきるするとか、この人、きいてくれそうだから話すとか
そんな生き方をしては、後々、苦労するでしょうね。
その悩み。どうしたいの?
解決したいなら、解決したいという目標を持って、まず、それを少しでも解決してくれそうな人に相談しなさいね。
もし、ただ、聞いてもらいたいなら、占い師とか、全く、関係ない人に話をした方がましです。
無論、信用できて、話を聞いてもらうパートナーを見つけることは、究極のことかもしれないけど…
人は、まるで人の悩みを聞いているふりをして、こっち側(自分側)に引き入れようという人が結構いますから。
そういう人には、十分に気をつけて下さい。
純粋な心を持った人を見極められるのも大事な才能かもしれないけど…
・・・・・・・・・
何て思ってたり、昨日、こんな本が職場に参りました。
岩手県版中学校道徳資料集
「郷土の明日を見据えて~先人の生き方に学ぶ~」
もらったとき、正直、うわぁ~、復興予算の無駄遣いか?って、思って、読み始めました。
誰、この人?って、目次を見たり。
最初の「冨田 小一郎」。名前、分かりませんでした。
読みました。あ、この人、私がずっと知りたかった人だと気づきました。
「日本一の先生」
旧制盛岡中学、現在の盛岡第一高等学校の先生で、数多くの著名人を世に送り出した先生。
石川啄木、米内光政、板垣征四郎、田中館愛橘。
これら日本を代表する人たちを世に送り出した先生です。
私、この方、盛岡一高の生徒だったとき、生徒会誌で読みまして、
あぁ…先生になったら、こんな人になりたいって思った人でした。
(高校1年生頃まで、高校の先生になりたいと考えていましたし…)
その後、調べてもあまり資料がなく、名前すら忘れてしまいました。
なんたる偶然?
もしかして、この本の編集者は、あのときの同窓会誌と関わりのがある人?
第1番目に載せるなんて…
最後の話のフィナーレが、この「冨田 小一郎」先生を東京赤坂の料亭に呼んで、教え子たちが、謝恩会を開くシーンです。そこに「冨田」先生が出席して、かの有名な教え子と一緒にお酒を飲み、それが「日本一の幸福な先生」って新聞にのって名が知られるようになったと結んでいます。
この文の構成もあのとき見た生徒会誌の通り。
なんたる、タイミング。なんたる偶然。
ちょっと、目がうるうるしてきた…
私なども名もなき、ただの一教員。
みんながたくさん、活躍してくれることが、何よりも一番の楽しみです。
「日本一の幸福な先生」って、新聞に載りたいとは思いませんが、
市長になりたいとか大きな野望を持っている君も、頑張って欲しいなぁ…
などなど…
今日も長くなった…
若者よ、大志を抱け。
決して、ゆとり世代の困った人ではないさ。君たちは。
ファイト!
君たちの活躍を見られるよう、私も体力付けて、長生きするよ…きっと。
これは、私にも頑張れって言っているんだよなって思った今日です。
今日は、何を書こうかなと思って、いろいろと考えてみました。
「表現力」などはどうかとも、考えてみたり…
しかし、今日は、これにしようと思います。
昨日、家の父、母が、妹が東京に戻って、ま、寂しくなった&来週、仕事帰りに私の家に
寄ってみる(私がいないときだが)という電話があったことから、ちょっと思いだし…
「私が、大学院に入学を決めた理由。」
思い出せば、大学3年の終わり頃。12月か1月くらい?
附属の教育実習なども一度経験し、
さらに、バブルの崩壊を迎えていた1990年代初頭。
高校の先生になろうか?
って、考え始めました。
中学校の時の夢は高校の先生でしたし…
ま、大学も東京学芸大学(以下、学芸大学)なので、そりゃ、そっち方面も良い。
大学生の時(学部生)も、結局、塾の講師など、そっちばかり結果やっていたし。
なにせ、兄がカルビーに勤めてしまったので、
一人くらいは、岩手に帰るべきか?
帰って、収入面からも仕事の内容の面からも考えると
公務員?その中の教員?あとは、せいぜい、銀行員くらいか?
ま、最も、近いのは、やはり教員か?
不景気の波もあるし…
しかし、正直、大学に入るときは、教員養成課程を目指したわけでもなく、
東京に行きたいという理由が先立って、国立大学なら良いだろうくらいの理由で
受けた大学だが。
(本当は、高校の時にどうなりたかったというのは、いずれ、しっかり書きたいとして…)
教員養成課程にいる私としては、選択肢としてもっとも近かったのは、教員でした。
さて、それを家族に話したわけです。
「岩手に帰ってきて、教員になりたい。」
それをきいた父は、喜ぶかと思いきや意外なことを言い出しました。
そのつもりがあるなら、大学院に行け。
仮に、今の状態で帰ってきても、岩大を出たやつらの下について、
一生懸命、勉強して、学芸大学には行ってたおまえは、むしろ、嫌な思いをするだけ。
それを解消するには、人より一歩上になってから帰ってこい。
大学出だけでは駄目だ。
そのために、大学院を卒業してこい…
県職員である父の言葉は、当時は、そんなものか?って、感じでしたが、
根が素直で、基本的にボンボン育ちの私は、素直に受け取りました。
大学に入った頃は、自分の中学校の先生が学芸大の大学院出身だったり
したこともあり、大学院って、イメージがなかったわけではない。
しかし、入学当時は、バブル絶世期。
わざわざ、大学院に入ってどうすんのよ…って、感じの時代でした。
あまり、意識して入った大学でもなし、本当にどこに興味があるかも分からず、
だったら、授業にちゃんと出て、自分の興味があるものでも見つけるか
って、いう人間でしたので、大学の授業だけは、まじめに受けておりました。
おかげで、成績も周りの男子学生よりは、ずっと良いわけですが…
しかし、
特段、何かに秀でた学生でもなく。
たった一つは…
でも、周りの先生たちには、恵まれていたことくらい…
大学院を受けようかな…ってことを、そのときすぐに先生方に相談をすることが簡単にできました。
全然、何ら準備してもない失礼な私が…
自分の心の準備だって、今にして思えば、どうだったか?
私の担当教官は、「福永 礼治」先生(現専修大学法学部教授)。
(私の所属は、法学政治学教室所属でした。)
相談すると、
そうだね、高校の教員にも修士くらいは必要かもね…
良いことだと思うよ…と、言われました。
しかし、来たばかりで、あまり、制度的に詳しくはないので…とも、言われたような…
決して、私の大学院に入ることに否定的な話はありませんでした。
学部生時代も院生時代もこんな私をいつも優しく見守ってくれた、「角替 晃」先生(死去)に相談に行くと
大学院のテスト問題は、図書館にあるとか…
そこに行けば、大学院のだいたいのテストの傾向がわかるとか教えらてくださいました。
試験は大丈夫かと不安だらけの私の背中をぽんと押してもらったという感じです。
無論、この時点で、勉強が足りないのは分かっており、
その点は、相談した皆の先生にも、言われたことでした。
「福永」先生には、とにかく、テストは論述。
これが、書けないとどうにもならない。
そのためには、どう勉強すれば良いかも教えてもらいました。
途中、「福永」先生が病気で入院され、愕然としましたが、
その後、変わって、「服部(清水) 篤美」先生(現東海大学法科大学院教授)が支えてく
ださりました。
「角替」先生は、夏休みに、数人を誘って、野尻湖の合宿所で、合宿を企画して
くださったり、本当にお世話になりました。
いつも、優柔不断な私が、心が折れそうなとき、何かに声を掛けて下さいました。
試験は、教育学、法律学、そして、英語。
21歳にして、また、英語の勉強か…しかも、法律関連の英語。
当時、「服部」先生のアメリカの民法関係、代理母の原文による勉強。
「角替」先生のアメリカ合衆国憲法の原書。
毎日、頭が痛くなりながらの4年生の春・夏を過ごしました。
みんな、大学に来なくなった時期に、必死に大学に通いました。
阿佐ヶ谷から小金井まで。
でも、皆、頑張れって…優しく見守ってくれました。
本当に、勉強しました。それに比べれば、その後の教員採用試験なんて…くらい。
そして、何とか、先生方の好意で、大学院の試験にすれすれで合格し、無事に現役で院生になることが
できたわけです。
何を考えても、皆様に支えられて、院生になれたことを感謝しなければならないと思います。
試験自体あまりに、準備をしっかりしていなかったので、落ちることも覚悟しないとって感じでしたから…
さて、「角替」先生が、亡くなった話を、このブログに書きました。
あとあと、先生の教え子さんから問い合わせのメッセージを頂きました。
亡くなったとき、「服部」先生から、葬儀の案内をいただけました。
仕事があって、いくことが出来ませんでした。
いつか、お墓参りにいこう、いこうと思って、だらだらと今。後悔後に経たずです。
「服部」先生は、震災の後、大学の全国同窓会会長を紹介していただき、対談。
ネット、さらに、それが同窓会誌に載ることになりました。
いずれ、ちゃんと整理して、自分が学芸大学に入ったこととか、
大学院のこととか、無論、学部のころの話とか、教員になっての話とか
ちょっとでも、書いていきたいなぁ…って、思うようになりました。
特にも、いつか、高校3年生の1年は、ダイナミックに書きたいな…って、
考え、20年以上。書けてない…
書いて残すことって、大事だな…って、ずっと思いながら、この年となりました。
昨日、電話をもらったことを今日の交通安全教室のとき、思い出して、今日はこれを
書いてみようと思いました。頭で、文構想を考えました。雲一つない晴天の下。
最後に、父、母。本当に迷惑をおかけしましたし、父のあのアドバイスがなければ、きっと、
大学院に入ろうとも思わなかったでしょう。
多分、もし、入っていなければ、言われたとおり、つねに、仕事に愚痴だらけの人生となって
いたでしょう。
今、こうやって、いろいろなところで、生意気な口がたたけるのも、あのアドバイスを素直に
聞いていたからです。
それでも、まだ、独り身で、未だ、そればかりは心配の種として、本当に申し訳なく、思っています。
書いていたら、ちょっとうるうるきちゃいそうだよ…
本当に、周りの人に恵まれてきたから、これからもっと自分の周りの人を大事にしていかないとなぁ…
それを正直に思います。
今日は、長くなりました、明日への続く…とはせず、全部載せました。
うまく、書けているだろうか?
そして、普段なら実名は載せずに、わざとぼやっとした文を書いていますが、今日は、検索に
引っかかってもよいさぁ…で、実名で書いてみました。
私のブログ、おかげさまで、検索の上位によく引っかかるのよ…
あと、今日、買い物していて、教え子の「しん」くんのお母様にお目にかかって、本人の就職の件をきき、
「あら、先生、何歳になったの?
あぁ、そう、まだ一人なの。まだ、良いことあるよ」って、言われて
「は・は・は」の一日の終わりとなりましたこと、ご報告申し上げます。
「表現力」などはどうかとも、考えてみたり…
しかし、今日は、これにしようと思います。
昨日、家の父、母が、妹が東京に戻って、ま、寂しくなった&来週、仕事帰りに私の家に
寄ってみる(私がいないときだが)という電話があったことから、ちょっと思いだし…
「私が、大学院に入学を決めた理由。」
思い出せば、大学3年の終わり頃。12月か1月くらい?
附属の教育実習なども一度経験し、
さらに、バブルの崩壊を迎えていた1990年代初頭。
高校の先生になろうか?
って、考え始めました。
中学校の時の夢は高校の先生でしたし…
ま、大学も東京学芸大学(以下、学芸大学)なので、そりゃ、そっち方面も良い。
大学生の時(学部生)も、結局、塾の講師など、そっちばかり結果やっていたし。
なにせ、兄がカルビーに勤めてしまったので、
一人くらいは、岩手に帰るべきか?
帰って、収入面からも仕事の内容の面からも考えると
公務員?その中の教員?あとは、せいぜい、銀行員くらいか?
ま、最も、近いのは、やはり教員か?
不景気の波もあるし…
しかし、正直、大学に入るときは、教員養成課程を目指したわけでもなく、
東京に行きたいという理由が先立って、国立大学なら良いだろうくらいの理由で
受けた大学だが。
(本当は、高校の時にどうなりたかったというのは、いずれ、しっかり書きたいとして…)
教員養成課程にいる私としては、選択肢としてもっとも近かったのは、教員でした。
さて、それを家族に話したわけです。
「岩手に帰ってきて、教員になりたい。」
それをきいた父は、喜ぶかと思いきや意外なことを言い出しました。
そのつもりがあるなら、大学院に行け。
仮に、今の状態で帰ってきても、岩大を出たやつらの下について、
一生懸命、勉強して、学芸大学には行ってたおまえは、むしろ、嫌な思いをするだけ。
それを解消するには、人より一歩上になってから帰ってこい。
大学出だけでは駄目だ。
そのために、大学院を卒業してこい…
県職員である父の言葉は、当時は、そんなものか?って、感じでしたが、
根が素直で、基本的にボンボン育ちの私は、素直に受け取りました。
大学に入った頃は、自分の中学校の先生が学芸大の大学院出身だったり
したこともあり、大学院って、イメージがなかったわけではない。
しかし、入学当時は、バブル絶世期。
わざわざ、大学院に入ってどうすんのよ…って、感じの時代でした。
あまり、意識して入った大学でもなし、本当にどこに興味があるかも分からず、
だったら、授業にちゃんと出て、自分の興味があるものでも見つけるか
って、いう人間でしたので、大学の授業だけは、まじめに受けておりました。
おかげで、成績も周りの男子学生よりは、ずっと良いわけですが…
しかし、
特段、何かに秀でた学生でもなく。
たった一つは…
でも、周りの先生たちには、恵まれていたことくらい…
大学院を受けようかな…ってことを、そのときすぐに先生方に相談をすることが簡単にできました。
全然、何ら準備してもない失礼な私が…
自分の心の準備だって、今にして思えば、どうだったか?
私の担当教官は、「福永 礼治」先生(現専修大学法学部教授)。
(私の所属は、法学政治学教室所属でした。)
相談すると、
そうだね、高校の教員にも修士くらいは必要かもね…
良いことだと思うよ…と、言われました。
しかし、来たばかりで、あまり、制度的に詳しくはないので…とも、言われたような…
決して、私の大学院に入ることに否定的な話はありませんでした。
学部生時代も院生時代もこんな私をいつも優しく見守ってくれた、「角替 晃」先生(死去)に相談に行くと
大学院のテスト問題は、図書館にあるとか…
そこに行けば、大学院のだいたいのテストの傾向がわかるとか教えらてくださいました。
試験は大丈夫かと不安だらけの私の背中をぽんと押してもらったという感じです。
無論、この時点で、勉強が足りないのは分かっており、
その点は、相談した皆の先生にも、言われたことでした。
「福永」先生には、とにかく、テストは論述。
これが、書けないとどうにもならない。
そのためには、どう勉強すれば良いかも教えてもらいました。
途中、「福永」先生が病気で入院され、愕然としましたが、
その後、変わって、「服部(清水) 篤美」先生(現東海大学法科大学院教授)が支えてく
ださりました。
「角替」先生は、夏休みに、数人を誘って、野尻湖の合宿所で、合宿を企画して
くださったり、本当にお世話になりました。
いつも、優柔不断な私が、心が折れそうなとき、何かに声を掛けて下さいました。
試験は、教育学、法律学、そして、英語。
21歳にして、また、英語の勉強か…しかも、法律関連の英語。
当時、「服部」先生のアメリカの民法関係、代理母の原文による勉強。
「角替」先生のアメリカ合衆国憲法の原書。
毎日、頭が痛くなりながらの4年生の春・夏を過ごしました。
みんな、大学に来なくなった時期に、必死に大学に通いました。
阿佐ヶ谷から小金井まで。
でも、皆、頑張れって…優しく見守ってくれました。
本当に、勉強しました。それに比べれば、その後の教員採用試験なんて…くらい。
そして、何とか、先生方の好意で、大学院の試験にすれすれで合格し、無事に現役で院生になることが
できたわけです。
何を考えても、皆様に支えられて、院生になれたことを感謝しなければならないと思います。
試験自体あまりに、準備をしっかりしていなかったので、落ちることも覚悟しないとって感じでしたから…
さて、「角替」先生が、亡くなった話を、このブログに書きました。
あとあと、先生の教え子さんから問い合わせのメッセージを頂きました。
亡くなったとき、「服部」先生から、葬儀の案内をいただけました。
仕事があって、いくことが出来ませんでした。
いつか、お墓参りにいこう、いこうと思って、だらだらと今。後悔後に経たずです。
「服部」先生は、震災の後、大学の全国同窓会会長を紹介していただき、対談。
ネット、さらに、それが同窓会誌に載ることになりました。
いずれ、ちゃんと整理して、自分が学芸大学に入ったこととか、
大学院のこととか、無論、学部のころの話とか、教員になっての話とか
ちょっとでも、書いていきたいなぁ…って、思うようになりました。
特にも、いつか、高校3年生の1年は、ダイナミックに書きたいな…って、
考え、20年以上。書けてない…
書いて残すことって、大事だな…って、ずっと思いながら、この年となりました。
昨日、電話をもらったことを今日の交通安全教室のとき、思い出して、今日はこれを
書いてみようと思いました。頭で、文構想を考えました。雲一つない晴天の下。
最後に、父、母。本当に迷惑をおかけしましたし、父のあのアドバイスがなければ、きっと、
大学院に入ろうとも思わなかったでしょう。
多分、もし、入っていなければ、言われたとおり、つねに、仕事に愚痴だらけの人生となって
いたでしょう。
今、こうやって、いろいろなところで、生意気な口がたたけるのも、あのアドバイスを素直に
聞いていたからです。
それでも、まだ、独り身で、未だ、そればかりは心配の種として、本当に申し訳なく、思っています。
書いていたら、ちょっとうるうるきちゃいそうだよ…
本当に、周りの人に恵まれてきたから、これからもっと自分の周りの人を大事にしていかないとなぁ…
それを正直に思います。
今日は、長くなりました、明日への続く…とはせず、全部載せました。
うまく、書けているだろうか?
そして、普段なら実名は載せずに、わざとぼやっとした文を書いていますが、今日は、検索に
引っかかってもよいさぁ…で、実名で書いてみました。
私のブログ、おかげさまで、検索の上位によく引っかかるのよ…
あと、今日、買い物していて、教え子の「しん」くんのお母様にお目にかかって、本人の就職の件をきき、
「あら、先生、何歳になったの?
あぁ、そう、まだ一人なの。まだ、良いことあるよ」って、言われて
「は・は・は」の一日の終わりとなりましたこと、ご報告申し上げます。
さすがに、今日はこれで終わりにします。
あまり、後味の悪いものだと何なので、違う話題。
うわぁ~
BSが見られなくなったよ…
大雨のせい?
ちょっといじっても無理みたい。
部品の交換、必要?
弱りに目に祟り目ってよくいったものです…
気持ち、ブルーです。
追伸:いずれにせよ、周りで不幸になっていく人を見るのは私としては、最も辛い…
私のモットーは、自分に出会ったことで不幸になったという人を出さないこと。
あ、あと、明日は天気回復。チャリ通できそうです。
あまり、後味の悪いものだと何なので、違う話題。
うわぁ~
BSが見られなくなったよ…
大雨のせい?
ちょっといじっても無理みたい。
部品の交換、必要?
弱りに目に祟り目ってよくいったものです…
気持ち、ブルーです。
追伸:いずれにせよ、周りで不幸になっていく人を見るのは私としては、最も辛い…
私のモットーは、自分に出会ったことで不幸になったという人を出さないこと。
あ、あと、明日は天気回復。チャリ通できそうです。
久々、家で勉強してみました。
本を読むことはあっても、勉強までは。
2時間くらいかな?
勉強って、やってないと集中できないなぁ…とか思ったりもしました。
勉強の環境は、今は最高なんだけど…
さすがに、法律改正があったりして、昔と変わっており、難しい。
しかし、法律家に学んでいただけあって、分からないことはない。のだ。
その後、ミネラルウォーターなどが欲しいのもあり、買い物&お風呂。
本を読むことはあっても、勉強までは。
2時間くらいかな?
勉強って、やってないと集中できないなぁ…とか思ったりもしました。
勉強の環境は、今は最高なんだけど…
さすがに、法律改正があったりして、昔と変わっており、難しい。
しかし、法律家に学んでいただけあって、分からないことはない。のだ。
その後、ミネラルウォーターなどが欲しいのもあり、買い物&お風呂。
カレンダー
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |
フリーエリア
最新TB
プロフィール
HN:
ふる
HP:
性別:
男性
職業:
公務員
趣味:
読書
自己紹介:
久しぶりに、変えてみました。そ、プロフィールは、facebookで…こっちも、リンクしてみました。ちなみに、今、コメントは、書いてもらっても、すぐには、反映しません。こちらで、見て、公開するか決めています。ので、コメント書き込んでもらうと非公開なダイレクトメッセージになります。
ブログ内検索
P R
カウンター
アクセス解析
忍者アド
忍者アド
忍者アド